日本にとっての厄災「フビライ・ハーン」

拡大の一途をたどっていたモンゴル帝国が、今度は分裂します。オゴデイ・ハーンが亡くなり、チンギス・ハーンの孫世代の時代になると、これまた歴史上の帝国の例に漏れず、モンゴル帝国にも継承争いが起きたからです。

1260年、モンゴル帝国が「元」「黄金のオルド」「チャガタイ・ハン国」「イル・ハン国」の4つに分裂しました。元朝が中国大陸にあったからといって、元が中華王朝の1つと考えるのは間違いです。中国人が勝手に「中国人の王朝だ」と言っているだけです。

モンゴル人が中国を支配したのが、元です。決して中国人の王朝ではありません。これが正しいというのならば、日本全土を支配したダグラス・マッカーサーは日本人ということになってしまいます。そんなことは、日本人は恥ずかしくて言えませんが、歴史には本当のことしか書かれていないと決めてかかっていると間違います。

モンゴル帝国を継承しつつ、元朝を建てたのはチンギス・ハーンの孫の1人、フビライ・ハーンです。モンゴル帝国第5代ハーンでもあります。この人物が、日本にとって大災厄となりました。1268年、フビライ・ハーンから日本の鎌倉幕府に突然、国書が届きます。

▲フビライ・ハーン

冒頭から「上天眷命大蒙古國皇帝奉書日本國王」(=天が慈しみ、命を授けた大蒙古国の皇帝が、書を日本国王にさしあげる)と、いきなりの上から目線です。

国書の本文はというと「かつて中国と通好していた日本が、自分の代になってから1人も使者を送ってこないのは、日本国王が諸事情を知らないのではないかと懸念しています。我が意を伝えるために、使いの者に書を持たせました。これからは互いに仲良くしていくことを望みます。兵を用いるのを誰が望むでしょうか」です。

要約するなら「お前、家来になれ」と言ってきたのです。

命運を託された弱冠18歳の執権「北条時宗」

これを読んだ鎌倉幕府は、即座にモンゴル帝国は「敵だ」と判断しました。しかし、ケンカを売っているように見える非礼な国書ですが、ほかの国に出したそれと比べると、これでも格段に丁重な手紙だったのです。

単純に経済合理性だけを考えれば、モンゴルの言うままに家来になり、攻めないでもらうという選択もあり得ました。その場合、日本も貿易によって多大な利益を得たかもしれません。

しかし「自分の身は自分で守れなければ、何をされるかわからない」と鎌倉幕府の人たちは知っていたのです。当時の日本人は、土下座して相手の靴の裏を舐めてまで生きていこうとは思わなかったのです。

日宋貿易をしていたので、鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼には、モンゴルに関する情報は既に入ってきていました。宋は満洲人の金朝にカツアゲされている弱小国家でしたが、その金朝を滅ぼしたモンゴルには、もっと圧迫されます。宋から亡命した禅僧が、鎌倉幕府の主な情報源でしたから、モンゴルのアブナさは伝わってきます。

▲北条時頼

北条時頼は、過労で倒れ執権を辞し出家します。

息子の北条時宗は、未だ5歳と幼かったので、第6代執権に時頼の義兄・長時が就任するものの、彼も病に倒れます。その跡を継ぎ第7代執権には長時の叔父・政村がなりました。時宗が成長するまでの中継ぎ役とはいえ、政村は名政治家でした。

ちなみに鎌倉幕府の執権は短命の人が多く、時頼も長時も早死にします。政村は長老でしたが、元寇の前に亡くなっています。

▲北条時宗

北条時宗は1264年に14歳で連署(副総理)、1268年に18歳で執権(総理大臣)に就きました。弱冠18歳の執権(総理大臣)として、世界最大の帝国を相手に果敢に立ち向かい、日本の運命を背負うこととなったのです。