隠ぺいされたアフガニスタン侵攻の悲惨な実態

ソ連軍が撤退するまで10年続いた戦争で、アフガニスタンでは、人口の三分の一にあたる約400万人が難民になり、100万人以上が死亡し、多くの村落が廃墟と化しました。

一説によれば、1985年にはアフガニスタン政府軍とソ連軍によって、農家の半数以上が畑を爆撃され、四分の一以上が灌漑設備を破壊され、家畜を殺されています。ソ連軍が人々の憎悪の的になったのも当然でしょう。

アフガニスタンでの戦争が長引くにつれて、クレムリン(ソ連政治の中枢部)の指導者たちの一部までが「ロシア人であることが恥ずかしい」と嘆くようになります。それでもKGBは、アフガニスタンでの戦争の実態を隠蔽する偽情報を、ソ連国民と世界に向けて拡散し続けました。

ミトロヒンの元には、アフガニスタンでの戦争の悲惨な実態を報告する文書が、毎日おびただしく届きました。傀儡政府の公式発表では、アミンは革命裁判で裁かれて処刑されたことになっていましたが、ミトロヒンが読んだ第一総局の文書によると、アフガニスタン政府軍の制服を着たKGB特殊部隊が官邸に押し入り、家族や側近ともども暗殺したというのが真相です。

アフガニスタンで死んだ約1万5千人のソ連軍兵士の遺体は、顕彰する儀式もなく密かに葬られ、アフガニスタンで戦死した事実は、墓石にすら刻まれずに隠蔽されました。

国家の命令に殉じて命を失った兵士の慰霊も顕彰もしない政府は、ろくなものではありません。これはアフガニスタンへの軍事侵攻の是非とは別の問題です。

難民のことも、戦死者のことも、アミン暗殺の真相も、村落の破壊も、ソ連軍兵士たちの死の真実も、ソ連国民には一切知らされませんでした。

一杯のお茶が運命を変えた

1985年にゴルバチョフが「グラスノスチ」(情報公開)の重要性を訴え始めましたが、ミトロヒンは、グラスノスチによってアフガニスタンの真実が公表されるとは信じず、徐々に、自分が作成したメモを西側に持ち出して出版することを考え始めます。

やがて、1989年にベルリンの壁が崩壊し、1991年にはソ連が解体して、国境警備が緩くなりました。

ミトロヒンは、西側に文書を持ち込むいくつものルートと方法を慎重に検討しています。日本も候補地の一つで、ルートの下調べのためにサハリンに行っています。もし実現していたら、ミトロヒン文書は日本政府が受け取っていたかもしれないのです!

結局、ミトロヒンは1992年3月、寝台列車でラトヴィアの首都リガへ向かい、最初はアメリカ大使館に行ってCIAと話をしようとしました。ところがアメリカ大使館は、ミトロヒンのメモの価値に気づかず「文書はオリジナルではなく写したものだし、この人はスパイではなく図書館司書だ」と思って相手にしませんでした。

そこで次にイギリス大使館を訪問すると、ロシア語に堪能な若い女性職員が応対し「お茶をいかがですか」と言って、ミトロヒンにとって生まれて初めてのイングリッシュ・ティーを勧めてくれました。二人はミトロヒンが持参した文書を見ながらじっくり話し込むことになりました。

▲ゴルバチョフ 出典:ウィキメディア・コモンズ

この一杯のお茶でミトロヒンの運命は決定的に変わります。4月9日に再び、今度はタイプした約2000ページの文書を持参してイギリス大使館に行き、秘密情報部員と面談しました。

その後、何度かの協議を経て、11月に家族とともにイギリスに渡りました。そして秘密情報部は、ロシアでミトロヒンの文書を回収する秘密作戦を成功させています。

ミトロヒンは、文書をテーマ別に整理していました。モスクワにいる間にタイプして整理した文書が10巻、その後ロンドンで整理した文書が26巻あります。これらの文書が、ミトロヒンとアンドルーとの共著の元になっています。

ミトロヒンは、2004年に81歳でイギリスで亡くなりましたが、KGBの秘められた歴史はソ連史の重要な一部であって、ソ連国民にはそれを知る権利があると最期まで固く信じていました。

共産党一党独裁のソ連に住み、共産党員でありながら、ソ連の暴虐行為に関する記録を筆写し、公開しようとした一人のロシア人によって、ソ連の秘密工作は暴かれることになったわけです。

ソ連の近現代史は、たった一人の勇気と行動によって大きく書き換えられることになったのです。