ソ連の近現代史が書き換えられることになったのは、ミトロヒンの功績です。評論家・江崎道朗氏の調査担当を務める山内智恵子氏が、二十世紀の最重要史料のひとつ「ミトロヒン文書」によって明らかになった、ソ連の秘密工作について紹介する。
※本記事は、江崎道朗:監修/山内智恵子:著『ミトロヒン文書 KGB(ソ連)・工作の近現代史』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
ソ連解体へと繋がるアフガニスタン侵攻
ミトロヒンは1984年に退職しましたが、手書きのメモをタイプしたり整理したりする作業を続けました。
ミトロヒンが読んだ第一総局の文書の中で、彼自身にとって最も衝撃的だったのは1979年のアフガニスタン侵攻についてのものでした。そのため退職後の約1年半を、アフガニスタン関係の史料整理に費やしています。その成果は、ウィルソン・センターのワーキング・ペーパーとしてまとめられ、全文公開されています。
ミトロヒンにとって、何がそれほどショックだったのかという話の前に、アフガニスタン侵攻について簡単に押さえておきましょう。
1978年に共産クーデターが起きたアフガニスタンでは、政権を握った共産主義政党内部の派閥争いの果てに首相が暗殺され、代わって首相の座についたアミンの下で政情不安が強まっていました。
ソ連は1979年12月に軍事侵攻してアミンを排除し、傀儡政権を作りました。これがソ連のアフガニスタン侵攻です。
アフガニスタンではソ連の侵攻以前にも、無神論の共産主義政権に対するイスラム勢力の反発と民族対立がからんで各地で武力紛争が頻発していました。
そのただ中にソ連軍が侵攻したため、イスラム武装勢力によるソ連と傀儡政府へのゲリラ戦が、火に油を注いだように激化しました。こうして、ソ連はその後10年間にわたって泥沼の戦いを強いられることになります。
アフガニスタン侵攻によって、冷戦の様相も180度転換しました。1969年のニクソン政権成立以来、米ソ両国はデタント(緊張緩和)を積み重ねてきましたが、アメリカはソ連のアフガニスタン侵攻を、主権国家に対する侵略とみなしてモスクワ・オリンピックをボイコットしました。
1980年の大統領選では、保守派のレーガンが圧勝します。レーガン政権はソ連を「悪の帝国」と呼び、宇宙空間に迎撃兵器を配備する「戦略防衛構想」、別名スターウォーズ計画を発表して対決姿勢を鮮明にしました。こうして米ソのデタントは終わって新冷戦期に入りました。
レーガン政権が、パキスタン・イギリス・イラン・中国などと手を組んで、アフガニスタンの反政府勢力を支援し、ソ連に徹底して消耗を強いたことが、ソ連解体をもたらした決定的要因のひとつです。