「俺が“がん”?」つい何日か前にチャンピオンベルトを巻いた当時39歳の小橋健太さんが、自分が“がん”に侵されているというのは受け入れがたいことだったといいます。しかし不治の病と言われていた“がん”も治る病気になってきています。“がん”との闘病に打ち勝った小橋さんが、自身の体験から得た生き方についての考えを語ってくれました。
※本記事は、小橋健太:著『がんと生きる』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
けっして他人事にはできない病気
14年前の2006年6月24日、腎臓がんを告知された時、僕はあまりにもがんという病気について無知でした。
当時、がんに対するイメージは「不治の病」。でも、お年寄りが患って亡くなってしまう病気だと勝手に思っていました。それがつい何日か前にチャンピオンベルトを巻いた39歳の僕が、がんに侵されているというのは受け入れがたい事実でした。
「俺ががん? がんって腎臓にできるの?」
これが胃がん・大腸がん・肺がんなど、比較的に知られているがんなら少しは実感できたかもしれませんが、腎臓がんというのは、がん全体のうちのわずか1パーセント。罹患する割合は10万人に約6人という珍しいがんだったのです。
でも、がんは誰でも持っているものです。
がん細胞は、健康な人の体でも多数できることが研究で明らかになっています。そのがん細胞を退治しているのが免疫細胞です。がん細胞は、突然変異したものですが、もともとは正常な細胞から生まれたものなので、時に免疫細胞が異物と認識せずに増殖する場合があります。それが大きくなって、がん細胞になっていくわけです。
「がんは2人に1人がかかり、3人に1人が亡くなる病気です。決して、他人事ではありません」
僕が講演会でいつも早期発見、早期治療を訴えているのはそういうことです。国立がん研究センターの最新の調査では、生涯でがんに罹患する確率は男性が62%、女性が42%になっているので、僕が言っていることは決して大げさではありません。
でも、不治の病と言われていたがんも治る病気になってきています。もちろん、甘く見ていたら大変なことになってしまう怖い病気なのは確かです。それでもステージⅠの初期であれば胃・大腸・直腸・結腸など、10年相対生存率が90%を超えるがんも少なくありません。
大事なことなので何度も言いますが、検診を受けて早期発見に努めること。そして、なってしまった場合には、早期に正しい治療を受けることが大切です。
今や、誰がなってもおかしくない病気ですから、例えがんだったとしても悲観せずにしっかりと向き合ってほしい――僕もそうしてきたように、人生と命を無駄にせず、力強く社会復帰していってくれることを願っています。
期待されていなかった新弟子時代の思い出
大きな病気から社会復帰した時に、周りへの気遣いや遠慮もあって「自分の居場所がない」と感じる人もいると思います。
「自分の居場所がない」
「自分は必要とされていないのではないか」
これはつらいことです。では、どうすればいいのか? 自分で居場所を作り、必要な人間になるしかないのです。
僕は書類選考の段階で一度落とされているので、プロレス界から必要とされた人間ではありませんでした。なんとか馬場さんとの面接に漕ぎつけて入門の許可をいただき、87年6月20日に正式に入門しましたが、京都から東京の全日本プロレスの事務所に初めて行った時に、考えさせられる出来事がありました。
当時は東京・世田谷区砧にあった道場に入る前に、六本木の全日本事務所に挨拶に行くと、いきなり日刊スポーツと週刊ゴングの記者に別室に連れていかれました。
「さすがに全日本の新弟子は、マスコミの注目度も違うんだな」
いろいろとインタビューされ、上半身を裸にされて写真を撮られた僕はそう思ってしまいましたが、話を聞かれているうちに記者の人たちが「あれっ?」という表情になったのが少し気になりました。それから1週間後、道場に取材に来た週刊ゴングの記者に「お疲れさまです!」と挨拶すると、こう言われてしまいました。
「新弟子の小橋君だよね。先日はごめんね。人違いで取材してしまったんだけど、新弟子はいつ辞めるかわからないということで、会社の決まりで記事にできないんだよ。早くデビューできるように頑張って。その時は記事にするから」
これが現実でした。日刊スポーツと週刊ゴングの記者は、新弟子としては大きい105㎏もあった僕を、全日本入りが噂されていた元大相撲の玉麒麟(田上明さん)と勘違いして取材したのです。
“入門”ではなく“入団”の田上さんは入る前に記事になっても、一介の新弟子の僕は記事にならない――これが“望まれて入った者”と“望まれないのに入れてもらった者”の歴然とした違いです。