新型コロナウイルスの影響はプロ野球界にも波及している。いつ開幕できるか分からない状況で、全体練習の中止も決めたチームもある。選手個人でいかにモチベーションやコンディションを保つかが課題でもある。現役時代はほとんど一軍で過ごした小笠原道大氏。アマチュア時代は決して順風満帆とはいえない野球人生を歩んでいたというが、プロの世界で活躍できた理由を聞いた。
※本記事は、小笠原道大:著『二軍監督奮闘記』(ワニブックス刊)より、一部を抜粋編集したものです。
プロからは見向きもされない選手だった
現役時代の終盤以降、私の仕事場はすっかり二軍になっていましたが、若手時代はあまり二軍にいませんでした。とはいえ、決して順風満帆な野球人生だったわけでもありません。
同学年の石井一久、上田佳範、中村紀洋、鈴木一朗(イチロー)、三浦大輔が、高校生でドラフトに指名されてプロ入りする頃、私はプロ野球界からまったく見向きもされない無名選手でした。
これは謙遜でも、おおげさでもなく、まぎれもない事実です。
社会人時代は主にキャッチャーをやっていましたが、どこでもやる「便利屋」でないと、選手としてやっていけないのではないかという危機感がありました。
高卒の社会人選手は3年間で「プロ野球解禁」になりますが、私のところにはドラフトのドの字も聞こえてきませんでした。
地道なバッティング練習が少しずつ実を結んできた社会人4年目には、ドラゴンズのスカウトから「ひょっとしたらあるかも」と聞かされていましたが、結局指名はありませんでした。
転機となったのは1996年、社会人5年目でした。都市対抗野球大会予選で所属するNTT関東は敗退してしまいましたが、勝ち上がった新日鐵君津(現・日本製鉄かずさマジック)の補強選手に選ばれました。
この大舞台で活躍することができて、ようやくプロ入りを引き寄せることができたのです。ちなみに、このとき新日鐵君津で4番バッターを務めていたのが、私と同学年で、同じ社会人5年目の松中信彦でした。
そして私は、この1996年秋のドラフトで、ファイターズに3位で指名されました。客観的に考えて、当時のファイターズ球団は、私のことを「相場」よりもずっと高く見積もってくれたと思います。