アーミッシュに魅了された山中麻葉氏は、その実態を探るべく何度も現地に渡り、丁寧に取材を重ねてきた。ヴェールに包まれた、そのコミュニティの成り立ち、歴史に文化、現代のライフスタイル、そこに生きる人々のたくましい姿、そのすべてをありのまま感じることによって見えてきた、彼らの真実とは?

※本記事は、山中麻葉:著『アーミッシュカントリーの美しい暮らし』(エムジェイブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

アーミッシュ宗派の誕生と弾圧の歴史

アーミッシュとはキリスト教再洗礼派の一宗派です。再洗礼派は16世紀のヨーロッパで、ルターの宗教改革の流れのなかで生まれた宗派です。

最大の特徴は「幼児では洗礼の意味を理解できない」と考えていたこと。ローマ・カトリック教会が主流だった時代のヨーロッパでは、洗礼は生まれてすぐに受けることが当たり前でした。

再洗礼派はこれをよしとせず、大人になってから自分の意思で洗礼を受けるべきという考えを貫きました。この思想は当時のキリスト教社会では極めて異例であり、国から反感を買い「国家、教会に対する挑戦」と見なされました。そして、強烈な差別と弾圧を受けることになります。

再洗礼派の歴史を見ていると、日本の隠れキリシタンを彷彿とさせるところがあります。再洗礼派もまた、隠れキリシタンのように国家から異端扱いされ、斬首されたり火あぶりの刑に処されたり、奴隷にされるなど激しい迫害を受けていたのです。役人から隠れて、密かに森や洞窟などで礼拝を行っていたことも共通しています。

現在のアーミッシュにも、その当時の名残があり、教会という建物を持たずメンバーの自宅で礼拝を行います。役人に見つかった多くの信徒は拷問され、殉教していきました。

この再洗礼派信徒の殉教の歴史は『殉教者の鏡物語』という書物にまとめられており、アーミッシュの多くの家庭に置いてあります。アーミッシュは、自分たちの祖先の苦しみの歴史を、この書物を通じて代々伝えているのです。

▲『殉教者の鏡物語』 この本を親から子へと読み継ぎ、代々伝えています

再洗礼派は、激しい弾圧にもかかわらず農村地帯を中心に信徒を増やしてきました。信徒が拡大していくにつれて、中には暴力に訴えて差別・弾圧の苦境を打破しようとする、過激派グループも生まれました。

暴力を否定し、平和主義を貫くべきだと考える、その他多くの穏健グループは、この過激派グループから分離し、平和主義再洗礼派を組織します。このグループを率いたのがメノ・シモンズという指導者でした。彼の名前にちなんで、平和主義再洗礼派は「メノナイト」と呼ばれることになります。これが1560年のことでした。

メノナイトから分派したアーミッシュ

メノナイトは現在も多くの信徒を抱えており、日本にもその支部があるようです。アメリカのメノナイトには、アーミッシュと同じようなシンプルな服装をするグループもあり、たびたびアーミッシュと間違われることがあります。

同じ再洗礼派のため共通点も多いのですが、往々にしてアーミッシュのほうが、より保守的なルールを持って生活しています。なぜなら、より聖書に基づいた規律ある暮らしを求めて、アーミッシュはメノナイトグループから独立したグループだからです。

再洗礼派から分派したメノナイトは、スイス・南北ドイツ・オランダに広がっていきます。各地にメノナイトの指導者が置かれることになりますが、そのうちの一人が、のちにアーミッシュの指導者となるヤコブ・アマンです。

当時のメノナイトの中には、流行に流されて世俗的な生活をし、キリスト教信徒として規律のない行動をする人たちもいました。この現実に危機感を抱き、主に二つの思想を掲げてメノナイトから独立したのがアーミッシュです。

一つめの思想は、聖餐式〔パンをキリストの肉、ワインをキリストの血と見立てて食事をするキリスト教の儀式〕をもっと頻繁に行い、信徒の信仰心を強くするべきという考え。二つめは、教義を破り、悔い改めなかった信徒への対応を、もっと厳しくするべきという考えです。

1693年、こうしてメノナイトからアーミッシュが分派しました。その後、オランダ・スイス・ドイツに、アーミッシュの信徒が増えていきます。このエリアは、方言の強いドイツ語を話していたそうで、当時の言葉が、現在のアーミッシュの言葉「ペンシルヴァニアダッチ」に通じています。