家庭にテレビが広まったときも同じだった

昔、テレビが普及し始めた時にも、似たような懸念が論じられました。ある社会評論家が「一億総白痴化」とテレビを非難したこともあります。確かに、メディアの発達によって、生まれた問題というのはあります。

家庭にテレビが広まったときも同じだった イメージ:PIXTA

メディアが存在せず、情報が少なかった時代には、皆が同質的な価値観の中で生活していました。地域のコミュニティが強く、子どもは地域の大人や、同世代の仲間たちの中からルールを学び、価値観を身につけ、その中で育っていったのです。社会に出て、会社に入っても、大体の人が同じように育っているので、さして問題はありませんでした。

だからこそ、この時代にはマス(大衆)相手の流行というのがたくさん生まれましたし、スターと言えばそれこそ国民的スターでした。

こうした時代、いわゆる「知識人」というのはまさに、「情報をたくさん持っている人」だったわけです。そのため、大学へ進学して様々なことを学んだ人材が、国や企業を引っ張っていきました。それはなにより、「情報」と共に、「想像力」を持っていたからこそです。

昔の「知識人」はもういない

こうした時代においては、現代でいう「パワハラ」、「セクハラ」、「モラハラ」のようなことも、さして問題とはされませんでした。それはやはり、情報が少なく、想像力が外へ及ばなかったことが大きいでしょう。

しかし、メディアが発達し、いわゆる「知識人」でなくとも情報を持つようになってくると、こうした問題は表面化していきます。そうした中で、それまで問題とされなかったようなパワハラ、セクハラといったことが、「どうもおかしいのではないか」と表面化してきてもいるわけです。

また、都会の暮らしや最先端の仕事に従事することを想像だにしなかった人々が、情報の一般化によってそういう自分を想像できるようになり、チャンスを求めて地元を離れるなど、価値観やライフスタイルは多様化していきました。

こうした世の流れによって生まれた新たな問題も、もちろんあるわけですが、だからと言って元に戻れるものでもありません。むしろ、個人のチャンスという観点で言えば、昔と比べ格段に大きなものになっているのは確かです。

インターネットの普及によって、さらに詳細な情報に誰でも、世界中からアクセスできるようになった昨今においては、それはさらに加速しています。

一方で、誰でも膨大な情報に、いつでもアクセスが可能になったために、かつては優秀とされた「記憶している情報の多い秀才」のような人間の価値や組織、産業の在り方もまた、変化を迫られてきているのが現代の状況です。