江戸時代の男たちが遊んだ場所は吉原だけじゃなかった! 当時の歓楽街があった場所や様子を、作家で江戸風俗研究家でもある永井義男氏が紹介する。江戸時代の谷中には「いろは茶屋」という岡場所があったという。今回のその“最期”について触れる。

谷中の「いろは茶屋」から風俗王にのし上がった男

図4は、いろは茶屋の女郎屋の光景である。

▲図4『かくれ閭』(石塚豊芥子:著/安政4年)、国会図書館:蔵

 

さて『藤岡屋日記』に、いろは茶屋を経て、いわば風俗王にのしあがった男の話が出ている。次に、わかりやすく要約しよう。

越前屋六左衛門は越前(福井県)の出身で、若いころ江戸に出てきた。

六左衛門は、あちこちの木戸番屋で働きながら、こつこつと金をためた。

ある程度の元手はできたが、堅気の商売をしてもタカが知れている。手っ取り早く金を稼ぐには女郎屋がいいと思ったが、自分には経営のノウハウがない。

そこで、遊女上がりの女を女房に迎えた。

「女たちを仕切るのは、おめえに任せるぜ。当分は、おめえも客を取って稼いでくれ」

そして、本所で二軒の切見世を開業した。

商売は順調で、今度は谷中のいろは茶屋に「越前屋」という四六見世を開業した。

さらに、根津に六軒の切見世を開業し、勢いに乗って、吉原の経営難に落ちていた妓楼二軒を居抜きで買収した。

ついに、吉原進出を果たしたのである。

前妻の怨念が幽霊になった!?

だが、それまで商売一筋だった六左衛門も、気がゆるむようになった。自分が経営する、いろは茶屋の越前屋の、お時という遊女を妾にし、別宅に住まわせた。

これに気づいた女房は、嫉妬をむき出しに、夫婦仲も冷えた。

天保八年(1837年)、女房は死んだが、死の直前に六左衛門を枕元に呼び寄せ、言った。

「これだけの身代になったのは、夫婦で懸命に働いたからじゃないか。あたしなんぞ、客を取ることまでやったんだよ。そんなあたしを踏みつけにした、お時と一緒になるのは絶対に許さないよ。ほかの女を後妻に迎えるのならかまわない」

女房が死に、葬式がすむと、六左衛門は妾のお時を後妻に迎えた。

ところが、その夜から、いろは茶屋の越前屋に幽霊が出るという噂がひろまった。前妻の怨念が幽霊になって現れたというのである。

六左衛門はとりあえず、お時を吉原の妓楼に住まわせ、自分はいろは茶屋の越前屋に住んだ。

天保十三年(1842年)二月十四日、いろは茶屋で火事が発生し、女郎屋はすべて焼失した。

火事のあと六左衛門は、いろは茶屋で女郎屋の建設にとりかかったが、三月、天保の改革にともなう岡場所の取り払いが命じられた。

こうして六左衛門が、いろは茶屋と根津に所有していた女郎屋はすべて取り潰された。

しかし、吉原に妓楼を所有していたため、六左衛門はかろうじて商売を続けることができた。

火事で焦土となった、いろは茶屋は、再建することができないまま、廃絶に追い込まれた。天保の改革が終了したあとも、いろは茶屋の復活はなかった。

現在、寺の多い静かな谷中の雰囲気からは想像もつかないが、かつて天王寺の門前に、男の歓楽街があった。

『江戸の男の歓楽街』は、次回12/23(水)更新予定です。お楽しみに!!