『M−1グランプリ』『ダウンタウンDX』をはじめ、数々のバラエティ番組を手がけてきた放送作家・倉本美津留さんも、若い頃はくすぶっていた。ビートルズを超えてやるという決心を持って、大学を卒業しても就職はせずにバンド活動を続けていたその頃が、倉本さんにとっての「土壇場」だった。

ビートルズの影響を受け、マスコミの門を叩く

「音楽の世界で天下を獲ってやる」。思いは強かったが、きっかけがつかめなかった。23歳のとき、ジーパンの店頭販売をするバイト先から「店長にならないか」と声がかかった。店長になれば、その世界に埋もれていく気がした。

早くこの状態を脱しなければ。焦りが募るなか、アルバイト情報誌で見つけたのが、テレビやラジオの制作会社の社員募集だった。マスコミの仕事なら「音楽業界のすごい人」に出会えるかもしれない。本当はすごい才能があるけれど、窓際社員になっている人に見出してもらえるのではないか。倉本さんはそう考えた。

これも敬愛するビートルズの影響だった。音楽プロデューサーのジョージ・マーティンは、レコード会社EMIで、目立たない存在だった。しかし、ビートルズを見出したことで、彼らとともに大成功を収めたのだ。

「(ジョージ・マーティンのような)業界の変わり者で『一発当ててやろう』と思っている人と変わり者の僕が出会ったら、絶対になんとかなると思ったんです」

▲「絶対になんとかなる」根拠なき自信があった

倉本さんは1文字1文字祈るようにして書いた履歴書を、これまた祈りながら投函した。後日、連絡があり、面接を経て採用になった。その制作会社は、関西で有名なテレビ番組をいくつも手がけていた。以降、倉本さんは、つねにポケットにデモテープを忍ばせ、仕事で音楽関係の人に会えば、手渡すということを続けていく。

ただの見学者なのに企画を提案した

一方で、自分の価値観に周りを巻き込むことが得意な倉本さんは、ここでも本領を発揮していく。制作会社に入った直後、見学に行ったテレビ番組『突然ガバチョ!』の会議でのことだった。

『突然ガバチョ!』は、笑福亭鶴瓶さんが全国区になるきっかけとなった人気番組である。会議室は重苦しい雰囲気だった。チーフディレクターは「おもろい意見が出ぇへんなぁ!」と不機嫌だった。倉本さんは迷わず手をあげた。

「僕は入ったばかりのぺーぺーで、ただの見学だったんですけど『はい!』って。『誰じゃお前』って感じでしたけど『そのコーナー、こういう企画がおもろいと思うんですけど』って言ったら『ヨシ採用! 来週から来い』って」

その場で『突然ガバチョ!』のADとして働くことが決まった。

「それまでアホな友達と暇つぶしに新しい遊びを考えてみたり、それで笑ったりということばっかりやってきたんですけど、この業界ではそれが役に立つんだとわかった瞬間でしたね。『これが仕事になんねや!』って」

倉本さんのそうした姿勢や、アイデアを面白がってくれる人はたくさんいたが、面白く思わない人もいた。まだパワハラという言葉がない時代。先輩社員からの圧力は凄まじかった。嫉妬もあったのだろう。「仕事にかこつけて、よぉ殴る蹴るされましたよ」と倉本さんは振り返る。「それこそ土壇場でしたよね(笑)」。

しかし、倉本さんも引き下がりはしなかった。小学校ではクラスで一番面白いことを言えば、みんながついてきてくれた。同じように制作会社でも「面白いことをやったもん勝ち」だと考えた。必要もないのに企画書をすべて筆ペンで書いて提出したこともあった。番宣(番組宣伝)用の短い台本を書くように言われて、ついおもしろおかしく書いて「こんな仕事もできないのか」と叱られたこともあった。

「周りの人たちにダメだと言われようが、喜んでくれる人が1人でもいたら、絶対にチャンスがある。むしろその1人のほうが正しいかもしれないという感覚は、この時代に勝ち取ったんです。逃げたくなるようなこともありましたけど、そのころ身につけたものは、後々までしつこく残りましたね」

▲自分が面白いと思うことに対しては一步も引かなかった

期待以上のものをいち早く返す。相手が思ってもいなかった方向性の企画を提示する。すると相手の表情が明るくなる瞬間がある。それが好きだという。「お題」があれば面白い答えを出す、面白い答えが欲しければ「お題」を出す。それが倉本さんの仕事になっていった。