コミュニケーションで培った信頼関係
ただ、やみくもに精神論を掲げ、選手たちをしごいていたわけではないことは強調したい。
当時のスポーツ界で、最先端のコーチ陣をはじめ、スポーツ専門の栄養学に精通したスタッフを合宿に同行させた。体のケアをする専門家だけでなく、精神面のケアをするスタッフも同行させた。メンタルコーチという、当時のプロスポーツ界で広がり始めていた、新しいカテゴリーの専門家だ。
戦術を理解させ、そのうえで肉体的・精神的に負荷がかかる状況で、正しい戦術を正確に遂行させるトレーニングも課した。
こうした厳しい強化プログラムを遂行するためには、選手との強い信頼関係がなくては始まらない。プレッシャーの前に人間関係だ。誰も不信感を抱いている人間の言うことなんて聞きたくないだろう。
指揮官は「この人の言うことを聞いていれば勝てる」と思われる存在でなければ、選手たちを動かすことはできない。世界のラグビー界では、ワールドカップで全く勝てない日本ラグビーは、嘲笑の的にすらなっていた。私はこう語りかけた。
「そんな状態にある日本ラグビーを、変えたくないか? 日本代表の選手である君たちは、そんな日本ラグビーを変えることができるチャンスを手にしている。さあ一緒に歴史を変えよう」
そのうえで、選手一人一人とコミュニケーションを丹念にとっていく。たとえば、チームの主力選手と昼食を共にし、自分たちがいかに素晴らしいチャンスを手にした状態かということを、じっくりと説いたことがある。
代表チームには、世界最高峰リーグへ果敢にチャレンジし、当時の日本ラグビーの状態を変えることに強烈な情熱を持っている選手もいた。その目標を果たすために、個人として何ができるか。そして、チームとして何ができるか。技術的な話から精神的な話まで、とことん真正面から語り合った。
時間をかけてそれぞれの選手と、こうしたコミュニケーションをとり、自分たちは一丸となって目標を達成するのだという信念を育んでいったのだ。
あの試合で本物の侍精神を見せてもらった
さて、日本ラグビーの歴史を実際に変えることになった、南アフリカ代表戦を振り返ろう。試合前、南アフリカ代表選手のなかで、日本代表に負ける可能性があると思っていた選手など、一人もいなかっただろう。
しかし、試合が始まってみれば南アフリカ代表は日本代表から、これまでどの国からも受けなかったようなプレッシャーを受けた。彼らは精神的に不気味なものを感じたはずだ。
前半終わって、スコアは12―10と南アフリカ代表はわずか2点のリード。
「日本代表にこんなに追い込まれるとは思ってもみなかった」というのが、ハーフタイムでの精神状態だっただろう。
ワールドカップ予選プールの組み合わせが決まってからの2年間、日本代表の選手たちは、この試合に勝つことを最大の目標として、厳しい鍛錬を積んできた。対する南アフリカ代表の選手たちは、予選プールを首位で通過したあとの決勝トーナメントが、この大会の山場だと考えていたはずだ。この死角を突いた。
後半に入り、引き離そうとする南アフリカ代表に、日本代表は必至で食い下がり続けた。緊迫した試合の終盤は、両軍ともに疲労困憊し、脳に酸素が回らない状態になる。
疲れた状態では一瞬の判断力が鈍り、簡単なミスも犯しがちだ。日本代表の選手たちは、この試合のこの場面のために2年間、血の滲むような鍛錬を重ねてきた。
試合はロスタイムに入り、南アフリカ代表の反則で、日本代表はペナルティゴールで同点に追いつくチャンスを得た。
ラストワンプレーでの得点チャンス。ここで簡単なキックを決めれば、優勝候補の一角である強豪相手に引き分けることができる。私は「キックを決めて同点に持ち込め!」と叫んだ。
しかし、ここでリーチ・マイケルキャプテンをはじめ、選手たちは別の道を選択した。ペナルティーゴールを決めて同点を狙うのではなく、トライを決めて逆転を狙う道を選んだのだ。私は「一体何をやっているのだ」と嘆いた。この試合を同点で終えれば、日本ラグビーの歴史を変えるだけのインパクトになるというのに。
だが、このときの選手たちの判断の結果、日本代表は世界のラグビー界の歴史に残るような劇的な逆転トライを決め、南アフリカ代表を破った。
本物の侍精神とはこのことだろう。これまで選手たちを徹底的に追い込んできたヘッドコーチが、選手たちに新しいものを教えてもらった瞬間だった。