日本が日露戦争に勝利した要因のひとつに「日英同盟」の存在がある。1902年当時、強国イギリスとの同盟締結の背景には、中国大陸で起きた義和団事件での日本軍の振る舞いが関係していたという。しかし、イギリスも日本との友好のために同盟を結んだわけではない。「光輝ある孤立」から抜け出す第一歩に日本を選んだ理由について、元駐ウクライナ大使・馬渕睦夫氏と、産経新聞社の前ロンドン支局長・岡部伸氏が語ります。

※本記事は、2021年5月に刊行した馬渕睦夫×岡部伸:著『新・日英同盟と脱中国 新たな希望』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

「サムライ・ジェントルマン」と規律正しい日本軍

岡部 義和団事件での日本軍の活躍は、当時イギリスの新聞でも紹介されました。英『タイムズ』紙は社説で、全公使館区域の救出を成し遂げた日本への感謝を述べ、「外交団の虐殺、国旗侮辱をまぬがれえたのは、ひとえに日本のおかげである。日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない」と日本兵の輝かしい武勇と戦術をたたえたうえで、「日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である」と報じています。

義和団鎮圧後、救援連合軍が北京へ入場すると、ロシアをはじめ各国軍兵士とマクドナルド公使ら外交官たちは、復讐心から、紫禁城の財物の略奪を盛大に行いました。

馬渕 当時の欧米の感覚では、戦争の勝者が略奪するのは普通のことですからね。

岡部 はい。彼らにとって略奪や強姦は“戦争の余禄”という認識でした。でも、規律の厳しい日本軍は、部隊として敵の官衙(役所)の金品や米倉を差し押さえはしたものの、個人的な略奪は行っていません。

▲紫禁城内の連合軍 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリックドメイン)

西太后の離宮として有名な頤和園も、はじめ日本軍騎兵第五連隊が占領していたんですが、彼らは豪華な装飾品や宝石などに手を触れることなく守っています。まあ、そこも数日後にはロシア軍が塀を乗り越えて侵入し、大々的に略奪して居座ったんですが……。

日本側も小部隊ではロシア兵たちを制止できず、師団司令部に報告しています。しかし、司令部としても、連合軍同士で事を構えるわけにもいかないので、結局、日本軍は黙々と撤収しました。

ちなみに、この時はロシア軍の兵士だけでなく、イギリス軍の兵士も略奪行為に参加し、手に入れた骨董品類や宝石を、公使館の中でオークションをして売っていたそうです。渡部昇一氏の著者『日本とシナ 1500年の真実』(PHP研究所/2006年)には、「イギリス、アメリカの管轄区域はフランスやロシアの区域よりは良かった。しかし、日本軍のそれと比べると遠く及ばなかった」という証言が載せられています。

このように、日本軍は規律正しく治安が維持されていたため、当時はロシアの区域から日本の区域に避難する人が洪水のように流れていったそうです。

日本軍は略奪をしなかっただけでなく、女性に対しても節度と礼儀ある態度を貫いたので、西洋列強各国の公使館関係者の夫人たちは、柴五郎中佐の「騎士道的ジェントルマン」ぶりを称賛しました。柴五郎は「サムライ・ジェントルマン」として世界で認められた第一号になったわけです。

また、義和団事件を通じて柴五郎に惚れ込んだイギリスのマクドナルド公使も「日本人こそ最高の勇気と不屈の闘志、類稀なる知性と行動力を示した、素晴らしき英雄たちである」と、公式の場で柴五郎と日本軍の活躍を絶賛するようになりました。

柴はその後、イギリスのビクトリア女王をはじめ各国から勲章を授与され、「ルテナント・コロネル・シバ」(柴五郎中佐)として広く知られるようになります。

こうして日本軍と日本に対する評価が高まったことが、1902年の日英同盟締結の背景となったことは紛れもない事実です。柴五郎こそ日英同盟の影の立役者です。

イギリスの“したたかな”外交戦略

馬渕 おそらく、今の学校の教科書には「柴五郎」の名前すら出てこないんでしょうけど、間違いなく日英同盟の最大の功労者のひとりですよね。まあ、もちろんそれだけじゃなくて、当時のイギリスにはイギリスなりの“したたかな戦略”があったわけですが。

岡部 おっしゃる通りです。マクドナルド公使は「サムライ魂」を持つ柴五郎と日本兵の礼節と勇気に感動し、「日本武士道は西洋騎士道である」と称賛しました。そして「日本人以外に信頼しうる人々は他になし」との信念から、「東洋で組むのは日本」と確信します。これが日英同盟の締結につながったわけです。

同盟締結の背景というか、馬渕大使がおっしゃった「イギリスのしたたかな戦略」についても触れておくと、近世以来、イギリスの外交政策は「勢力均衡」が基本でした。いかなる国とも恒久固定的な同盟関係を結ばず、平時は大陸情勢から超然とする「光輝ある孤立」を保ちながらも、ひとたび覇を唱える強国がヨーロッパに出現し、イギリス本土にその脅威が迫る恐れが生じた場合には、他の大陸欧州諸国と連携して覇権国家に対抗する。こうして影響力拡大を阻止し、イギリスへの圧迫を回避する、というのが伝統的な外交手法だったんです。

新たな大国が出現すれば、昨日の敵は今日の味方となり、味方が台頭し始めれば、明日は再び敵対する。したたかといえば、したたかですが、そんな柔軟で現実主義的な外交政策を展開して19世紀に覇権国家となったのです。

馬渕 19世紀にイギリスの首相を務めたパーマストン(第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル/1784〜1865年)が「永遠の友好国も永遠の敵国もいない。永遠にあるのは国益のみだ」という名言を残していますが、まさにそれですね。国際関係を見る場合、つねに念頭に置いておくべき教訓であり、今の日本に最も必要な発想だと思います。今の日本はそれとはまったく逆の考え方しかできず、国益というものを柔軟にとらえられていないですからね。

▲パーマストン子爵の肖像画(フランシス・クリュックシャンク/1855年) 出典:ウィキメディア・コモンズ

岡部 本当にその通りです。列島から一歩、大陸へ足を踏み入れると、世界はどこも「腹黒い」。お人好しでは、祖国が滅亡してしまう。当時イギリスは、こうして「光輝ある孤立」と呼ばれる非同盟政策を貫き、現実主義でヨーロッパの紛争には介入せず、あらゆる国と自由貿易を行い、自国製品の販売・輸出によって世界経済の中心として栄えていました。

しかし、他のヨーロッパ主要国が三国同盟(1882年にドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの3国間で結ばれた秘密軍事同盟)や、露仏同盟(1891年から1894年にかけて成立した、フランスとロシアが結んだ政治協定・軍事協定)といった連合体制を敷いてくるなかで、次第にイギリスの優位性も揺らいできます。特に、当時ことあるごとに対立していたのが南下政策を推進するロシアです。