信忠が向かうも、時すでに遅し

5月29日、家康さまは朝から堺に発たれ、午後になって雨が降りしきるなか信長さまが京に入られました。宿舎は、本能寺でございました。

その日の朝に安土を出発されて、45kmほどものマラソンコースくらいの距離を行軍されたあとなので、信長さまから「迎えは要らぬ」とお触れが出ておりましたので、華やいだ上洛にはなりませんでした。

翌日はお休みになり、6月1日になって勅使・公家衆などの訪問を受けられました。このときには、中国への出陣は6月4日の予定だと話されていたそうでございます。

信長さまは、博多から来た島井宗室や神谷宗湛という商人を招き、天下の名物を集めた茶会を催されました。また、のちに初代本因坊となる日海と本能寺の僧・利玄の碁の対局を楽しんでおられます。そして夜は、信忠さまらと遅くまで懇談されたのでございます。

そこでは天下統一後の構想も語られたでしょうし、もしかすると、在京中に参内して信忠さまの地位を固めることなども話し合われたのではないでしょうか。

やがて、信忠さまは宿舎の妙覚寺に戻られました。当時の本能寺は、四条烏丸の交差点の北西にあり、妙覚寺はそれより1kmほど北の御池通の北側にございました。

▲信忠が宿舎とした妙覚寺 出典:PIXTA

同じころ丹波では、午後10時頃に城を出た光秀さまが、途中で臨時の軍議を開き、初めて謀反の決意を主だった家臣に宣言されました。ほとんどの者は腰が抜けるほど驚いたことでしょうが、出発してからでございますから、もうどうしようもありません。

こうして明智軍団は、山陰道老ノ坂にさしかかりました。西国へ向かうなら右折して摂津へ向かうのですが、京へそのまま進むことになったので、兵士たちには信長さまに閲兵してもらうためと言ったようでございます。

そして、桂川を渡ったあたりで馬の蹄や草履を戦闘用に変え、火縄銃に種火をつけさせました。「敵は本能寺にありっ!」と言ったとすれば、老ノ坂でなくこのときでございましょう。東の空がうっすらと白み始めておりました。

庫裏のあちこちで騒ぎが起こる異変に気付かれた信長さまに、森蘭丸が日向守謀反を知らせたときには、境内はすでに明智勢であふれておりました。信長さまはしばらく弓矢などで戦われましたが、逃げ出しようもなく、奥の間に入って自刃され、家来たちは首が明智方の手に渡らないように火をかけたのでございます。

信忠さまは報せを聞いてかけつけようとされましたが、途中でもう決着はついたと言われ、二条城に入られました。逃げようと思えば可能性はあったのですが「雑兵の手にかかるよりは……」とおっしゃって戦い、そして自害されたそうでございます。

うちの秀吉なら逃げるかもしれませんが、あのころの武士の気分としては、そう言うものだったとしか言いようがございません。

信長さまと信忠さまの遺体は発見されませんでした。というのも現代と違って、黒焦げになった死体が誰なのかを判断するような「科捜研の女」は、京都奉行所にはいなかったのでございました。

テレビドラマで京都府警科捜研の法医研究員の役をされている沢口靖子さんは、1996年のNHK大河ドラマ『秀吉』で寧々の役をしておられたので贔屓(ひいき)にしております(笑)。

▲秀吉が天下獲りに近づいた本能寺の変 イラスト:ウッケツハルコ
※ 塩野七生さんの小説でも有名なチェーザレ・ボルジアは、マキャベリに「すべての事態への対策はしていたが、父の教皇アレクサンデル6世が1503年に死んだときに、自分も瀕死の重態であることだけは予期してなかった」といっている。信長にマキャベリを読ませたかった。

※二条城は次の天皇と見られていた誠仁親王の御所だったが、待避していただいたうえで信忠は入城した。

※光秀は山崎の戦いの戦場から離脱して、伏見から大津へ抜ける奈良街道の途中の醍醐・小栗栖付近で見つかって斬られ、大津市堅田で発見されて斬られた斎藤利三のものとともに、その遺体は粟田口(京の入り口にあたる蹴上付近)で晒されたことが、具体的に多くの信頼できる日記に記されており、疑問の余地はない。