なぜか酒をグイッと飲みたくなる夜がある。心に積もった埃を洗い流してしまいたいからかもしれないし、しとしと降る雨音や赤く染まっていく夕焼けに惹かれるからかもしれない。ただ楽しいから、幸せだから、あるいは悲しいから、心寂しいからかもしれない。そうでなければ、ただ酒が恋しいだけかもしれない。韓国のベストセラー作家であり、書評サイトの運営者でもあるチョン・スンファン氏が、世界中の名著から見つけた、あなたにそっと寄り添う文章を紹介します。

※本記事は、チョン・スンファン:著+小笠原藤子:翻訳『私が望むことを私もわからないとき』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

私たちは酒に酔うのではなく人生に酔うのだ

腹を割って話せる人がそばにいなくても、ただ酒が友人になる日。酒は言葉もなく心の奥底まで流れ込んできては、心を撫でてくれる。私たちをふらつかせる酒が、ときには、ふらつく人生の軌道修正をしてくれるとは、まさに皮肉だ。

▲ただ酒が友人になる日もある イメージ:PIXTA

悩み多き若かりし頃、私は一篇の詩と酒の入ったグラスを前に涙ばかり流し、大いに癒やされたことがある。

泣くなよ
誰だってそうやって生きているんだ
毎晩暗闇で寝返りを打ち、朝が来れば
取るに足らない希望を一つ胸に抱いて
また出かけるんだ
風が冷たいからと、疲れが残る眠りからまだ覚めないと
家に引き返す人がいるもんか
生きることは全く思い通りにいかないな
心や体はいとも簡単に壊れがち
花札で運がつくみたいに、なんだかいい日だってあるにはあるが
そんなのそのときだけだろ
ある日大雨が降っても、その雨に
何が倒され、何が流されるかなんて、誰が知るもんか
それでも世の中は夢見る人のものなんだ
取るに足らない希望でも
一つ抱いて生きるのは幸せなことさ
何も待たずに生きる人生は
どれだけ哀れか
さあ、一杯やれよ
うまくいくことがないと
こんな世の中、いいことなんかちっともないと
酒に溺れて泣く友よ

詩人ペク・チャンウの「焼酎を飲んだから話すわけじゃない」と題する詩だ。多少極端な表現もあるが、概ね共感できる。私がこの詩を酒のつまみに飲んだことは、数回ではきかない。本当によく慰められたものだった。

あなたは、特に好きな酒があるだろうか。私が一番好きな酒は焼酎だ。ほかの酒に比べると廉価なうえ、どこでも購入可能でありふれているから親しみやすい。どんな場でも気負わず飲むことができるし、グラスも小ぶりで扱いやすい。

乾杯して一気にグラスを空けて体が温まると、なぜかお互いの距離まで縮まった気がする。そして何よりも、焼酎グラスにはいろいろな思い出が詰まっている。その小さいグラスを持ち上げれば、グラス越しに屈託ない笑顔の愛しい人たちの姿がチラつくから。

▲焼酎グラスにはいろいろな思い出が詰まっている イメージ:PIXTA

こんな話をすると、私が酒豪のような誤解を与えかねないが、そうではない。それはさておき、酒をこよなく好む芸術家たちは数知れない。代表格を一人だけ選ぶとすれば、十九世紀フランス象徴主義の詩人、ボードレールが挙げられるだろう。

彼は『悪の華』という問題作の詩集で、当時はもちろん今日までその名声を轟かせている。代表作の詩「上昇」の一節は、1977年に宇宙探査のため打ち上げられたボイジャーに搭載されたゴールデンレコードに収められ、今も宇宙旅行を続けている。

彼の詩は、世界のすべての苦痛が込められた詩集と本人が称する通り、しなやかな読み応えではない。

私の心にひときわ深く響く詩は「酔え」である。ボードレールが他界し、2年後に発表された散文詩集『パリの憂鬱』に収められている作品だ。韓国で人気を博したドラマ『ミセン-未生-』で、主人公チャン・グレのナレーションにより紹介され、知られるようになった作品でもある。

常に酔っていなければならない。
すべてはそれにかかっている。これこそが唯一の問題なのだ。
君にのしかかり、地へと君を屈めさせる「時間」という恐るべき重荷を感じないためには、休むことなく酔わなければならない。
では、何に酔うのか。
酒に、詩に、あるいは美徳に、君の思うままに。
とにかく酔いたまえ。
そうしてもしも時折、宮殿の階段の上で、
濠の緑の草の上で、
お前の部屋の陰鬱な孤独の中で、
酔いがすでに減じあるいは醒め切り、目覚めるのなら、
たずねたまえ、
風に、波に、星に、小鳥に、大時計に、通り過ぎていくすべてのものに、嘆くすべてのものに、流れゆくすべてのものに、歌うすべてのものに、話すすべてのものに、今、いずれのときかとたずねたまえ。
そうすれば風は、波は、星は、小鳥は、大時計は、君にこう答えるだろう。
「今や酔うときである! 時間に酷使される奴隷にならないためには、酔いたまえ。絶えることなく酔いたまえ! 酒に、詩に、あるいは美徳に、君の思うままに」

いつでも酔っていなければならない、という言葉は、ただ身体的な意味で使われているのではない。詩人は酒であれ、詩であれ、美徳であれ何であれ、心向くまま酔いたまえと謳っている。

人間が備えた肉体という身体的限界を超越することを願ったボードレールは、酒を媒体として一人の人間の精神的高揚を追求したのだろう。

ただ自分の体の安泰と平穏を追求するのではなく、風に、波に、星に、流れゆくすべてのものに、歌うすべてのものに、そう、私たちを取り巻くすべてのものに情熱を注ぎ、懸命になれと叫んでいるのだろう。