戦後日本の経済を支えた酪農産業。牛乳も牛肉も世界で戦えるポテンシャルを持っている。現在の酪農産業に元気がないように見えるのは「政府による強い統制のせいだ」と国際政治アナリストで世界経済にも詳しい渡瀬裕哉氏は語ります。それでは日本の酪農家たちは、どこに目を向ければ良いのでしょうか?

※本記事は、渡瀬裕哉:著『無駄(規制)をやめたらいいことだらけ――令和の大減税と規制緩和』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

日本の牛乳は「おいしい」って知ってますか?

皆さんは、日本の牛乳がすごくおいしいのをご存じでしょうか。牛乳が好きだからとか、喉が渇いているからという話ではなく、海外に行ったことのある人は、まずうなずいてくれる話です。とにかく、日本の牛乳はおいしい。 

▲おいしい日本の牛乳 イメージ:PIXTA

牛乳が一般庶民に普及したのは、明治時代になってからのことです。古代に渡来人から献上された乳製品が貴族に珍重されたり、江戸時代に徳川吉宗が牛を飼って搾乳(さくにゅう)されたりしていましたが、明治時代にオランダ人からノウハウを学んで生産体制が整備されるとともに、日清戦争・日露戦争の際に傷病兵の栄養剤として一般に普及しました。

明治時代初期は、新しい国づくりをするため、いろいろな先進技術を海外から取り入れようと外国人の先生を雇います。昔の日本人は、自分たちの国が欧米列強に対して少し遅れた状態にあるなら、どんどん学んで新しい知識を得ようとしました。

新しいものに対する好奇心や、国を発展させようという使命感、強い列強に対して国の独立を保とうという思いのなかで、海外の良いものを取り入れ、自分たちも強い国にしようと考えたのです。

明治9年(1876)、北海道に札幌農学校が設立されます。日本で最初の官立農学校です。アメリカの農科大学からウィリアム・スミス・クラーク博士を招き、当時最先端の酪農技術を導入しました。札幌農学校の初代教頭となったクラーク博士は、植物学や自然科学を英語で教え、キリスト教の普及活動も行います。実習や実験に重きを置いた教育により、まだ始まったばかりだった北海道の開拓を指導できる人材を育てます。

クラーク博士が日本にいた期間は8か月と短い期間でしたが、農業や酪農などの基礎を北海道に築きました。「北海道開拓の父」とも言われます。

▲札幌農学校第2農場(北海道大学) 出典:PIXTA

クラーク博士が日本を去る際、教え子たちに残した「少年よ、大志を抱け」という言葉には、お金や名声を望んで頑張るというよりも、人間の本来持つべき志(こころざし)=「大志のために頑張ろうね」という意味合いがあったと言われます。

当時、これから欧米列強に追いついていこうとする新しい国・日本の人々に、事業やお金は大切だけれども、大事なことはそれだけではないという言葉を残した人です。

こうしたクラーク博士の精神を引き継ぐかのように、酪農事業は生産量や品質を向上させていき、戦前日本の大きな産業となります。昭和初期は農家が酪農を兼業することが奨励され、東南アジアへの輸出も増えました。

戦後は零細化した酪農家の集約化や生産技術の向上で、一度に多頭の乳牛を導入した生産量の大きな酪農家も増え、国民の栄養と健康の向上に貢献しています。

▲クラーク博士像 出典:PIXTA