日本の独立と男色文化を守った戦国の時代

1549年のザビエルによるカトリック伝来によって、その後も多くの宣教師が来日しています。その一人に、ザビエル来日の14年後の1563年に来日し、信長や秀吉にも謁見したイエズス会宣教師ルイス・フロイスがいました。

そんな彼も、著書『日本史』でこのように書いています。

僧侶どもが体面を保つためにおいている〈と申しておる〉若衆との交りは、きわめて重い、忌まわしい罪であります。
[柳谷武夫訳『日本史4 キリシタン伝来のころ』平凡社、1970年]

▲『日本史』目次 出典:ウィキメディア・コモンズ

これは、フロイスが信長に初めて謁見した2年後の1571年の記事ですが、ザビエル来日から20年以上経っても、宣教師たちの意識が変わることなど、当然ながらあり得ないことでした。

さらに、1579年に来日したイタリア人イエズス会巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノの『日本巡察記』には、こう書かれています。

彼等に見受けられる第一の悪は色欲上の罪に耽ることであり、これは異教徒には常に見出されるものである。………最悪の罪悪は、この色欲の中で最も堕落したものであって、これを口にするに堪えない。彼等はそれを重大なことと考えていないから、若衆達も、関係のある相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠蔽しようとはしない。それは、仏僧が説く教義はこれを罪悪としないばかりでなく、極めて自然で有徳の行為として、僧侶自らがこの風習を有するからである。
[榎一雄監修 松田毅一・佐久間正編訳『東西交渉旅行記全集 日本巡察記』桃源社、1965年]

ここまでは、ザビエルともフロイスとも同じです。しかし、ヴァリニャーノは「日本に聖福音の光が輝き始めてからは、多くの人々は、その闇が如何に暗いものであるかを理解し始めており」と言っていますから、カトリックに改宗した日本人は男色をやめたことがわかります。

豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛は、『陰徳太平記』には関ヶ原で東軍に内応した吉川広家と「裁袖余桃」の関係だったとあります。裁袖余桃とは中国の故事に由来し、男色関係にあったことを表します。しかし、官兵衛は1585年にカトリックに改宗していますから、広家との男色があったとすれば、それ以前であろうということが推察できるのです。

▲黒田孝高(黒田官兵衛、黒田如水) 出典:ウィキメディア・コモンズ

しかし、カトリック教国による「イエズス会宣教師を使った日本征服計画」が明らかにされる時が来ます。

1596年、スペインのサン・フェリペ号が土佐(高知県)に漂着したとき、スペインはどのような手段でフィリピンやメキシコなどを侵略したのかと尋問された乗組員は「もし我々をよく受け容れれば味方になるし、もし悪い取り扱いをするならば領土を奪う」と答えます。そこで「そのためにはまず宣教師が来なければならないであろう」と問われると「そうである」と答えたのです。
[佐久間正『南蛮人のみた日本』主婦の友社、1978年]

これがきっかけになり、長崎における「日本二十六聖人」と呼ばれる人たちの殉教が起こるのです。殉教自体は確かに悲劇ですが、日本人として「木を見て森を見ず」ではなく、こうした経緯があったことだけは決して忘れてはいけません。秀吉は日本を侵略しようとしたスパイを処刑したのです。

▲26人の処刑を描いた1862年の版画 出典:ウィキメディア・コモンズ

そして、この秀吉による対外政策及び対キリシタン政策は、徳川家康に引き継がれ、江戸幕府は、布教は求めず交易だけを求めたイングランド(イギリス)・オランダのプロテスタント国との関係を深め、キリシタンを弾圧しました。その集大成が、いわゆる「鎖国」という武装中立となりますが、それができたのは、当時の日本が世界最強の陸軍国だったからにほかなりません(倉山満『並べて学べば面白すぎる世界史と日本史』KADOKAWA、2018年)。

その経緯については省きますが、日本が戦国時代だったことによって独立を守ることができ、結果的に男色文化も守られた、ということだけは断言できます。

関ヶ原の戦いの勝利によって、徳川家康は1603年に江戸幕府を開幕しますが、男色文化はいよいよ最高潮に華開くこととなるのです。

※本記事は、山口志穂:著『オカマの日本史』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。