家康が「殉死禁止をお命じください!」と言われたワケ

貫肉・刺青・指切り・爪放しなどが、衆道関係を結んだ者の二心がないことの証であるとすれば、その最上級はなんでしょうか?

それは当然ながら死です。「この人のために死のう、この人のためなら死ねる!」、この論理こそが、今までの男色関係を結んだ多くの人たちの共通項です。男色で結ばれた親衛隊は強力になるのです。

江戸時代、世の中はパクス・トクガワーナ(徳川の平和)と呼ばれる泰平の世となりました。ところが、それに反比例して男色文化は最高潮に達しているのですから、武士たちのエネルギーは戦場に求められない以上、それ以外に向けられることになります。それこそが、主君が亡くなると後追い自殺をする“殉死”となるわけです。

殉死は、1607年に家康の四男・松平忠吉が亡くなったことから始まったとされます。

殉死をする理由で多いのは、主君との衆道関係にあったということになるのですが、ほかには仕事で落ち度があったけど殿様に許されたとか、病気で十分御奉公できなかったという理由もあり、しまいには、絶対に主君にお声など掛けて貰える身分ではないのにお褒めの言葉を掛けていただいた、などという理由から殉死する武士まで現れるので、こうなると収拾がつかなくなるわけです。

そうしたことから、外様でありながら家康の絶大な信頼のあった伊勢津藩初代藩主・藤堂高虎は、家臣を集めて「わしが死んだときに殉死したい者は、こっそりとこの箱に書いて入れるように!」と命じ、70人以上の殉死希望者の集まったリストを家康に提出したうえで、家康に「これだけ有能な者を大量に失うのは将軍家のためにもならないので、殉死禁止をお命じください!」と依頼したというエピソードが『武将感状記』にあるほどです。

▲藤堂高虎 出典:ウィキメディア・コモンズ

しかし、その後も幕府や他藩では殉死は止まりません。なぜかと言うと、それは「我が藩ではこれだけ殉死者が出た=我が藩にはこれだけ忠臣が多いのだ!」というアピール合戦に使われたのです。例えば、薩摩藩の島津義弘(1619年没)のときは13人、仙台藩の伊達政宗(1636年没)のときは20人、熊本藩の細川忠利(1641年没)のときは19人といった具合でした。

そのなかで、殉死者の数が半端ないのが佐賀藩です。藩祖である鍋島直茂(1618年没)で12人、初代藩主・鍋島勝茂の嫡男で早死にした鍋島忠直(1635年没)で5人、そして勝茂(1657年没)でなんと26人で、これはさすがに死にすぎです。こうなるということは、藩としては深刻な人材不足に陥りますし、周囲からのプレッシャーによる殉死の強要も起こるわけです。

これに危機感を持ったのが二代藩主・鍋島光茂です。父忠直が亡くなったときに、高野山に籠ったことで周囲から逃げたと陰口叩かれながら、一周忌に忠直の坐像を持参して殉死した江副金兵衛という男の存在と、1661年に光茂の叔父の鍋島直弘が亡くなったときに、直弘に殉じたい家臣が36人もいたということによって、ついに光茂は全国に先駆けて殉死禁止令(追腹御停止)を出しました。

▲鍋島光茂 出典:ウィキメディア・コモンズ

それに対して幕府の対応は、当時の幕府において三代将軍・徳川家光の死後、跡を継いだ四代将軍・徳川家綱の後見人(大政参与)として家綱を補佐したのが、家光の異母弟の保科正之でした。

その正之の治める会津藩、さらに水戸黄門こと徳川光圀の水戸藩においては、佐賀藩と同年の1661年には殉死禁止令を出していましたが、それに遅れること2年後の1663年、口頭ながらも幕府も殉死を禁止することにしたのです。

▲保科正之 出典:ウィキメディア・コモンズ

※本記事は、山口志穂:著『オカマの日本史』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。