寮生活で培われた三沢の無尽蔵のスタミナ

レスリング部の特待生は寮生活というのが決まりだった。渡辺が証言するその寮生活は――。

「寮は学校の敷地内にある一軒家でした。6畳あったのかなあ? そこに布団敷いて4~5人で寝るみたいな。僕は押入れの下の段で寝てましたね。食事は、朝は給食センターが弁当を届けてくれて、昼は職員の食堂で先生方と同じものを大盛りで食べて、夜は近くの食堂に行くと出来上がっていて、それを食べてました。

当時は今みたいに栄養学みたいなのがなくて、大したものは食べてないですよ。いつもみんな空腹でした。お菓子とかジュースは禁止だったんですけど、夜になると先生たちは帰っちゃうんで、そのあとに学校の裏にある10時ぐらいまでやっているお店によく行って、パンとかお菓子、ジュースを買ってました。僕たちは『裏店』って呼んでましたよ」

渡部が「アマチュアとはいえ、レスリングやるために高校に来ているような、学生のプロみたいでした」と振り返る生活は、朝の6時から8時近くまで校庭をランニングしてから授業を受け、昼は昼食が終わると道場の脇にあるバーベルセットでウエイト・トレーニング。午後は授業終了後の4時から8時ぐらいまで練習をしていたという。

「20分1ラウンドなんていうスパーリングを2連チャン、3連チャンでやるんです。最低2連チャン。その間、浦野(和男)先生もずっと唸りっぱなしですからね。やってるほうもやってるほうだけど、今思うと、よくあれだけの時間、唸ってるほうも唸っているほうだなって(苦笑)。

休みは大晦日と元旦だけですね。ああ、日曜日だけは朝練が休みでした。9時から12時の3時間はスパーリングとかの練習をやりますけど、その後は解放されるので日曜日だけはちょっと休めましたね」(渡部)

朝練の基本は6時からのランニングだが、時には起きるとすでに寮の前でバスにエンジンがかかっていて、なんの通告もなしに乗せられ、名草(なぐさ)という山を登り、峠を下りきったところで降ろされて走らされる“根性ランニング”というのもあったそうだ。学校までちょうど20kmの距離だったというからハードだ。

「到着するのが6時半ぐらいで“今から2時間以内に走って帰ってこないと、授業に間に合わないぞ!”と言われるんです。当時は携帯電話なんてないから“何かあったら、電話をよこせ!”って公衆電話を使うための10円玉を1個だけくれて、先生たちはバスに乗って帰っちゃうんですよ(苦笑)。起きぬけに、いきなりバスで連れていかれるから、走っている途中にお腹が痛くなるヤツもいました。そうすると川の中で大きいのをして、素手で川の水でケツを洗ったりとか、もうメチャクチャですね(笑)。

そういう日常だから授業中はほとんど寝てました。あんまり大っぴらに寝てると怒られますけど、当時は先生方もおおらかだったんで、試合前とかは“渡部、明日は試合なんだろ? 寝てろ、寝てろ。お前が負けると俺が言われちゃうから、休んどけ”って(笑)。当時はほんとに練習と食事以外は少しでも寝ていたいっていう感じでしたね」(渡部)

この“根性ランニング”のことは三沢、渡部の1年後輩で、のちに三沢を追うように全日本プロレスに入団する川田利明も憶えていて「山の奥に置いてこられちゃうから、まず土地勘がない人は帰ってこれないよ。先輩たちは土地勘があるから帰ってこられるけど、土地勘がなかったら、走ったって走ったって、全然違う方向に行っちゃって帰ってこれないと思うよ。

で、走って早く帰ってこないとフルーツジュース……、フルーツジュースって言っても、果汁10%ぐらいの安いのがテトラパックで何本か置いてあって、帰ってきた順にそれをみんなが口飲みするんだけど、遅く帰ってきたら、飲むものが何もないの」と振り返る。

三沢のあの強靭なスタミナは、こうした高校時代のハードな練習がベースになっているに違いない。

▲写真は栃の葉国体の出場選手と指導者の資料(下段左から2番目が三沢)

※本記事は、小佐野 景浩​:著『至高の三冠王者 三沢光晴​』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。 


プロフィール
 
三沢 光晴(みさわ・みつはる)
1962年6月18日、北海道夕張市生まれ。中学時代は機械体操部に入部し、足利工業大学附属高等学校に進学するとレスリング部に入部。3年時に国体で優勝などの実績を残し、卒業後の81年3月27日にジャイアント馬場が率いる全日本プロレスに入団。その5か月後にはデビューを果たすなど早くから頭角を現す。メキシコ遠征ののち、84年8月26日に2代目タイガーマスクとしてデビュー。翌年にはNWAインターナショナル・ジュニアヘビュー級王者を獲得する。90年に天龍源一郎が退団すると、試合中に素顔に戻り、リングネームを三沢光晴に戻し、超世代軍を結成。果敢にジャンボ鶴田やスタン・ハンセンなど大きな壁に挑むひたむきな姿で瞬く間に人気を博す。92年8月に三冠統一ヘビー級王者を獲得すると、名実ともに全日本プロレスのエースとして君臨。川田利明・田上明・小橋健太との“四天王プロレス”では極限の戦いを披露した。その後、全日本プロレス社長就任と退団を経て、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。社長兼エースとして日本プロレス界をけん引する。2009年6月9日に試合中の不慮の事故で46歳の若さでこの世を去るも、命を懸けた試合の数々とその雄姿はファンの記憶の中で今なお生き続けている。