名門・足利工大附属に特待生として入学

63年に大島大和(現在は「日本レスリング協会」関東ブロック選出評議員)が創部した足利工大附属レスリング部は、のちに新日本プロレスに入団する谷津嘉章が73年の千葉国体でフリースタイル75kg級優勝、翌74年にも谷津がインターハイのフリー75kg級で優勝、さらに76年と77年の2年連続でインターハイ団体優勝という実績を持つ名門校。三沢が入学したのは78年だ。

三沢と時を同じくしてレスリング部に入部したのが、冒頭に登場した渡部優一である。格闘技イベントRIZINなどで活躍する渡辺修斗の父親で、3年生のときにはレスリング部の主将(三沢は副主将)を務め、日本大学に進んでからもレスリングを続けた。

その後、佐山聡に弟子入りしてプロ格闘家となり、初代修斗ウェルター級(現・修斗世界ライト級)王者として活躍。現在は掣圏真陰流興義館(せいけんしんかげりゅうこうぎかん)館長を務め、さらに佐山主宰のストロングスタイルプロレス(=リアルジャパン・プロレス)では、仮面シューター・スーパーライダーとしてファイトしている。進む道は違ったが、ずっと交流を続け、三沢が心を許していた人物だ。

「僕は中学の頃にちょっと柔道をやっていて、足利の大会に出たんです。僕は群馬の太田の選手だし、ネットも何もない時代だから知らなかったんですけど、その時にたまたま勝った相手が栃木県のチャンピオンだったんです。白帯の僕が、黒帯で超有名な選手に一本で勝っちゃったから、その噂が足利工大の大島先生の耳に入って“その選手を探せ!”と。

で、僕の父が地元の足利で若い頃に柔道を教えていたこともあって、父の知り合いの地元の柔道関係者が“その選手は私の知り合いの息子だから紹介してあげるよ”という形で大島先生にご紹介いただいて入部しました」と、渡部はレスリング部に入部した経緯を語る。

当時、大島監督は2年後の80年に開催される地元・栃木での栃の葉国体で、3年生として戦える有望な人材を探していた。そこで柔道経験者の渡部を特待生としてスカウトしたのはわかるが、格闘技経験がまったくない三沢も特待生としてスカウトされた事情を渡部はこう説明する。

「当時は、今のようにちびっこレスリングとかはないですから、中学までは柔道をやっていて高校からレスリングを始めるというケースが多かったですよね。三沢の器械体操からレスリングを始めるというのも異例でしたけど、野球とかハンドボールとかで中学のときにちょっと有名だった人間が集まってましたよ。

三沢に初めて会ったのはレスリング道場だったんですけど、三沢が“体操をやってたんだ”って言うから“どうして体操からレスリングに?”って聞いたら“俺は別にそんなにレスリングには興味ないんだよね。でもプロレスラーになりたいから、アマチュア・レスリングはプロレスラーになるための修行としてやるんだよ”って。ホント、レスリングそのものには全然興味がなかった感じでした」と、渡部は笑う。

三沢はルールもろくに知らない状態で、入部してすぐの練習試合に出場。初心者にもかかわらず勝ち星を挙げて監督を喜ばせたというが、実際に期待は大きかったようだ。

「三沢は最初から先生たちに“こいつは強くなるぞ!”って注目されてましたね。あんまりイメージが湧かないと思いますけど、三沢はとにかく力が強かったんですよ。器械体操をやっていた関係なのか、腕力がすごくあったんです。それでリーチもあるから、片足タックルを教えると、手が相手の足に引っ掛かった瞬間にバッと引きつけて倒すんで、1年生の頃から先生たちは特別に三沢に目をかけていた感じです。

その後、三沢は片足タックルを取って倒して、背中を向けた相手のバックを取ってエビ(=クレイドル・ホールド)で丸めてフォールする。あるいは相手がタックルに入ってくるのを潰して、バッと回ってエビという戦法を得意とする選手になりました。腕力が強くて、あの階級(70kg級)ではリーチが一番長かったから、背中に回って、首と足を取ってグーッと回してフォールするんです。でも、本人はあんな感じで淡々としてましたね(笑)」(渡部)

▲練習に明け暮れた足利工大附属レスリング部時代(左から3番目が三沢)