昨年12月25日に開催された、小佐野景浩氏の新刊『至高の三冠王者 三沢光晴』の発売記念イベントは異様な熱気に包まれていた。なぜなら、あの天龍源一郎が参戦ということで、会場となった芳林堂書店高田馬場店には数多くのプロレスファンが駆けつけていたからだ。来たる2月12日(土)には、自身が率いる「天龍プロジェクト」の興行を大阪府豊中市で開催するなど、いまも龍魂が激しく燃え盛る天龍さん。トークショーでもクリスマスに駆けつけたファンのために、三沢さんとの思い出をたくさん語ってくれた。
天龍になら何やってもいいやと開き直っていた
小佐野 まずはタイガーマスク時代の話からですが、タイガーマスクってヒーローなんだけど、実はキャリア的にはまだ3年目でした。当時の全日本プロレスは格が重んじられていて、特に外国人選手は「いいカッコさせないよ」っていう態度でしたよね。
天龍 そうだね。でも、三沢は図太くて、平気で大技を相手にカマしていたよ。
小佐野 (ミル・)マスカラスにも、けっこう平気で空中殺法やっていました。
天龍 みんなはね、三沢っていうと華奢(きゃしゃ)で好青年っていうイメージかもしれないけど、意外と図太かったよ。これ悪口じゃないよ(笑)。
小佐野 そんな三沢タイガーには低迷の時期がありました。でも、三沢さんの希望が通って「猛虎七番勝負」の第5戦で天龍さんと対戦。87年6月の金沢(石川県産業展示館)で、弾けたファイトを仕掛けてきました。
天龍 最初は何が起こったかわからなかったけど、めちゃくちゃ来ましたよね。三沢は天龍源一郎を身近で知っていたから「あぁ、天龍源一郎になら何やってもいいや」って開き直ったのかなって。いちばん覚えているのは、場外に出た俺にトップロープから飛んできて、しびれて動けなかったこと。(試合後も)しばらく歩けなかったよ。
小佐野 天龍さんはフェンス外の本部席に叩きつけられましたよね。その後も、三沢タイガーはなぜか対天龍さんになると、士道館で学んだ蹴りを出していました。それも靴ひもの跡が付くぐらい。当の本人は「人と思ったら蹴れない」と言っていました(笑)。
天龍 あいつはひどいね(笑)。でも、金沢の試合が終わったあとに、(ジャイアント)馬場さんから「ご苦労」って言われて、俺は「あぁ、三沢もよかったな」と思ったのも確かだよ。
小佐野 あの試合を見た馬場さんが「龍源砲」(天龍源一郎と阿修羅・原のタッグチーム)の結成も認めて、そこから全日本プロレスは日本人対決へと進んでいき、そして天龍革命が起きました。三沢はマスクを被ったままでしたが、あの試合から変わりましたか?
天龍 三沢はね、プロレスで「上に行ってやろう」っていう向上心を常に持っていたよ。ただ、自分の感情が伝わらないモドかしさはあったんじゃないかな?
小佐野 天龍さんは、けっこう(タイガーの)マスクを破いてましたよね? 三沢さんは「マスクは自腹なのに」ってボヤいてました(笑)。
天龍 あ、そう(笑)。たしかにそうだったね。だって、マスク越しだと怒っているかわからないけど、マスクを破ると、怒って蹴ってくるからね。表情では伝わらなくても「あ、タイガーマスクがキックを出すってことは怒ってるんだ」って会場に伝わるからさ。だから俺は(マスクに)手をかけていたのかな。