2代目タイガーマスクに馬場が思い浮かべた3人

ところが6月18日、UWFが7月23&24日の後楽園ホールにおける『無限大記念日』へのザ・タイガーの参加を発表。馬場としては「どうしたらタイガーを全日本のリングに上げることができるか?」を考えていたが、コンチャは2月下旬の会談の時点で「全日本は脈なし」と判断して、UWFの反・新間派に接近。結局、新間氏はUWFを去り、佐山はUWFのリングに上がることになった。

これで馬場のタイガーマスク全日本プロレス登場計画は、水泡に帰したかに思えたが、ここで馬場に新たなアイデアを持ちかけたのが、6月22日に業務提携したばかりの新日本プロレス興行(のちのジャパン・プロレス)の大塚直樹社長だ。

大塚は、新日本の営業部長時代にタイガーマスクの原作者・梶原一騎と面識がある。そこで「だったら、私が梶原先生に話をして2代目のタイガーマスクをデビューさせましょう。誰かタイガーマスクにできそうな若い選手はいませんか?」と、馬場に提案した。

この提案に馬場は3人の選手を頭に浮かべた。メキシコ修行中の越中、三沢、そして三沢の1年後輩の川田利明の3人だ。馬場に「誰か若いのをタイガーマスクにしようと思うんだけど、誰がいいと思う?」と聞かれたザ・グレート・カブキは「三沢じゃないですか」と答えたという。

「馬場さんの頭にも三沢っていう考えがあっただろうから、俺が“三沢じゃないですか?”って言ったら“そうだろ? 俺もそう思うんだよ”って(笑)。あの当時じゃ、三沢しかいなかったでしょ。越中、三沢の後輩の川田もいたけど、動きや技のキレにしても、他の選手とは違ったからね。タイガーマスクっていうキャラクターを考えた場合には、それに合った動きができる選手じゃなきゃいけないから」(カブキ)

梶原が出した条件は、タイガーマスクのイメージを壊さない選手を起用すること、世界空手道連盟士道館の有望な選手を将来的にタイガーマスク2号にすることの2点で、金銭的な話はなかったという。なお、2号になる選手は実際に全日本の合宿所に入ったが、すぐに辞めてしまっている。

士道館の選手のタイガーマスク2号計画が頓挫したことで、のちに三沢タイガーのトレーニング・パートナーに指名される川田は「士道館から来た人は1日か2日目ぐらいに“辞めたい”って合宿所からいなくなったの。で、俺が三沢さんのトレーニング・パートナーに指名されたんだけど、それから少しして“タイガーマスク2号にするから”って馬場さんに言われたんだよ。“衣装を作れ”って言われてシューズまで作ったのに、いつの間にか話が消えていて(苦笑)。でも、その話がなくなってよかったよ。2番目って嫌じゃん。俺はタイガーマスクの2番手としてやるのが嫌だったから」と言っていた。

▲梶原一騎(右から2人目)は三沢タイガーに大きな期待をかけていた