馬場からの国際電話を受けたのは越中だった

日本でそうした計画が水面下で動いていることなど知らない三沢は、越中とともにメキシコEMLLでメインイベンターとして奮闘していた。そんな矢先に突然、馬場から国際電話が入った。電話を受けたのは越中だった。

「そういうポジションを取って頑張っていたところに突然、“三沢を日本に帰せ!”っていう話が出てくるわけですよ。それは三沢本人にじゃないんですよ。馬場さんは、俺に電話してきたんですよね。“チケットを送るから、お前が三沢を説得して何月何日の飛行機に乗せろ”と。その時にはタイガーマスク云々(うんぬん)の話は出なかったね。それは馬場さんから三沢本人に直接話したかったんじゃないですか。

俺は“メキシコでこういう状況でいい感じできてるんです”って話ができなかったし、馬場さんがメキシコの状況なんか知るはずもないしね。馬場さんもこっちの事情を一切聞こうとしませんでしたから。だから三沢に話をしたときに、やっぱり困った顔をしてましたよね。

当然、俺より先に帰るっていう後ろめたさみたいな気持ちが一番だったと思うけど、“この生活をもうちょっと続けたかった”っていう三沢の言葉は、たぶん本心なんですよ。でも、その後、メキシコにいる時点で三沢本人にも馬場さんから連絡があっただろうし、当然、帰国前にタイガーマスクになる話は聞いていたと思いますよ」(越中)

その後、馬場から「お前、コーナーポストの上に飛び乗れるか?」と聞かれた三沢が「はい、大丈夫です」と答えたことで帰国が決まった、というのは有名なエピソードだ。一方で三沢が「この生活を、もうちょっと続けたかった」と越中に言ったのは本心だろう。ようやくメキシコ・マットにも慣れて楽しい時期だったし、プライベートでもしっかりと彼女を作っていたのだ。

さて、当時の三沢のメキシコでの試合の記録を見ると、7月13日にアレナ・メヒコでカチョーロ・メンドーサ&トニー・サラサールと組んで、コロソ・コロセッティ&エル・エヒプシオ&ジェリー・エストラーダに勝ったのが最後。この試合後から帰国準備に入ったと思われる。

三沢が極秘裏に帰国したのは7月22日。初代タイガーマスクこと佐山が、ザ・タイガーとしてUWFのリングで354日ぶりにカムバックする前日である。成田空港からキャピトル東急ホテルに直行した三沢は、馬場にタイガーマスクを手渡されて、ようやく帰国の理由が飲み込めた。そして、そこに自分の意思が入り込む余地がないことも理解した。

2代目タイガーマスクは、全日本プロレス、ジャパン・プロレス、梶原プロダクション、日本テレビによる一大プロジェクトになっていて、すでに2代目タイガーマスクの全日本デビューは、全日本とジャパンの業務提携第1弾として、ジャパンが主催する8月26日の田園コロシアムに決定していたのである。

▲時は流れ2008年12月4日、佐山タイガーと三沢光晴はリング上で邂逅を果たす

※本記事は、小佐野 景浩​:著『至高の三冠王者 三沢光晴​』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。 


プロフィール
 
三沢 光晴(みさわ・みつはる)
1962年6月18日、北海道夕張市生まれ。中学時代は機械体操部に入部し、足利工業大学附属高等学校に進学するとレスリング部に入部。3年時に国体で優勝などの実績を残し、卒業後の81年3月27日にジャイアント馬場が率いる全日本プロレスに入団。その5か月後にはデビューを果たすなど早くから頭角を現す。メキシコ遠征ののち、84年8月26日に2代目タイガーマスクとしてデビュー。翌年にはNWAインターナショナル・ジュニアヘビュー級王者を獲得する。90年に天龍源一郎が退団すると、試合中に素顔に戻り、リングネームを三沢光晴に戻し、超世代軍を結成。果敢にジャンボ鶴田やスタン・ハンセンなど大きな壁に挑むひたむきな姿で瞬く間に人気を博す。92年8月に三冠統一ヘビー級王者を獲得すると、名実ともに全日本プロレスのエースとして君臨。川田利明・田上明・小橋健太との“四天王プロレス”では極限の戦いを披露した。その後、全日本プロレス社長就任と退団を経て、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。社長兼エースとして日本プロレス界をけん引する。2009年6月9日に試合中の不慮の事故で46歳の若さでこの世を去るも、命を懸けた試合の数々とその雄姿はファンの記憶の中で今なお生き続けている。