心酔していく三沢「やっぱり天龍さんってすごいよ

全日本の戦いの中心は、87年6月から全日本正規軍vs龍原砲になり、龍原砲と鶴田&輪島、鶴田&三沢タイガーの戦いがメインになった。鶴田&三沢タイガーvs龍原砲は6月11日の大阪府立体育会館で早くも実現して、レフェリーの制止を振り切って鶴田を執拗に攻撃した龍原砲が反則負けに。

続く7月17日の相模原市立総合体育館の再戦では、龍原砲のサンドイッチ・ラリアットに対抗して、鶴田のブレーンバスターと三沢タイガーのダイビング・ボディアタックの合体が飛び出すなど、結果こそノーコンテストになったものの、試合内容は向上した。

龍原砲と戦うようになってからの三沢タイガーは、一時封印していたキックを多用するようになった。フェイントをかけたミドルキックは重く、天龍と原は、いつも腕に三沢タイガーのリングシューズの紐の痕をつけられていた。

「腕だけじゃなくて胸なんてひどかったよ。まあ、源ちゃんとやったときもそうだけどさ(苦笑)。三沢にしてみたら、逆に俺に気を遣って、そこまでやっていたのかもね。それは“ここまでやらなきゃ、この人は嫌なんだろうな”っていう気遣いかもしれないし(苦笑)。

でも、そこまでできるっていうことは、三沢はやっぱり気持ちが強い男だったと思うよ。そこまでやれば、俺たちの反撃も半端じゃないことはわかっているわけだから。だから目立たなかったけど、あいつは俺たちのファイトの趣旨をきっちりと理解していたと思うな」とは、15年4月28日に68歳で亡くなった原の生前の言葉だ。

蹴りを解禁したことについて、三沢は「デビュー前に士道館で教わって……それで実戦で使ったら、重いんだよね。それで“危険すぎる!”ってクレームが付いたこともあるし、まだ恰好もサマになってなかったし。遠慮すると腰が入らないじゃん。そうするとサマにならないんだよね。でも今は胸を出してくれる人が出てきたから、思い切って使えるんだよ。やっぱり人だと思ったら蹴れないよ(笑)。“自分が食ったら嫌だなあ”っていう蹴りをやってるからさあ。

自分の足の甲が腫れ上がることもあるぐらいだから、相手は大変だと思うよ。それにシューズの紐を通す穴の金具が引っ掛かると、切れちゃうから危険なんだよね。でもUWFみたいにレガースを着けると鉄腕アトムみたいになっちゃうから、それはタイガーマスクとしてダメでしょ(笑)」と、暗に天龍と原への感謝を口にした。

また、天龍革命に心酔していた三沢は当時、このように語っている。

「天龍さんは“俺も思い切りやるから、お前も思い切り来い!”って感じだから、中途半端にやったら失礼だしね。リングの上だったら、何やったっていいんだよ。あくまでもリング上のことであって、私怨にはならないんだからさ。鶴田さんやカブキさんも天龍さんとやるときはすごいじゃん!

それを考えると、やっぱり天龍さんってすごいよね。こういうふうに意識改革したんだから。人は言われれば、その場では“ああ、なるほど”って思っても、すぐに忘れるものでしょ? でも天龍さんは、みんなの意識を変えて、それを定着させたんだから、共鳴する部分が多いよね」(三沢)

▲今でも天龍は三沢に思いを馳せる瞬間があるという(写真は2021年12月25日)

※本記事は、小佐野 景浩​:著『至高の三冠王者 三沢光晴​』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。 


プロフィール
 
三沢 光晴(みさわ・みつはる)
1962年6月18日、北海道夕張市生まれ。中学時代は機械体操部に入部し、足利工業大学附属高等学校に進学するとレスリング部に入部。3年時に国体で優勝などの実績を残し、卒業後の81年3月27日にジャイアント馬場が率いる全日本プロレスに入団。その5か月後にはデビューを果たすなど早くから頭角を現す。メキシコ遠征ののち、84年8月26日に2代目タイガーマスクとしてデビュー。翌年にはNWAインターナショナル・ジュニアヘビュー級王者を獲得する。90年に天龍源一郎が退団すると、試合中に素顔に戻り、リングネームを三沢光晴に戻し、超世代軍を結成。果敢にジャンボ鶴田やスタン・ハンセンなど大きな壁に挑むひたむきな姿で瞬く間に人気を博す。92年8月に三冠統一ヘビー級王者を獲得すると、名実ともに全日本プロレスのエースとして君臨。川田利明・田上明・小橋健太との“四天王プロレス”では極限の戦いを披露した。その後、全日本プロレス社長就任と退団を経て、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。社長兼エースとして日本プロレス界をけん引する。2009年6月9日に試合中の不慮の事故で46歳の若さでこの世を去るも、命を懸けた試合の数々とその雄姿はファンの記憶の中で今なお生き続けている。