ピースの又吉直樹をはじめ、多くの著名人から称賛を受けるシンガーソングライター・世田谷ピンポンズ。こんな場面が人生のどこかであったような……でも、他のミュージシャンの曲では聞いたことない、そんな独特の、彼にしか表現できない曲が持ち味だ。
近年では、ウェブメディアでの連載や、エッセイ集とCDがコンパイルされた『都会なんて夢ばかり』のリリースなど、文筆業とも近い距離で表現を行っている彼に、ミュージシャンを志したキッカケや、表現との向き合い方、又吉直樹との縁について聞いてみた。
父と2人だけのライブしていた
――最初に世田谷ピンポンズさんのことを知ったのは、クリープハイプの尾崎さんがエッセイ集『都会なんて夢ばかり』(夏葉社)を薦めていたからなんです。文章がとても高潔で素晴らしいなと思って。特に「貧乏なのは悪いことじゃないけど、貧乏くさいのは嫌いだ」っていう言葉が良いなと思いました。付属していたCDも聞いて、そこから過去作を掘って、順序が逆かもしれませんが、文章からミュージシャンとしての世田谷ピンポンズを知った感じです。
世田谷ピンポンズ(以下世田谷) ありがとうございます。尾崎さんはラジオで曲をかけてくださったり、本を発売したらすぐにうれしい感想をくださりました。先日も声をかけていただき、クリープハイプの新しいアルバムのライナーノーツを書かせていただきました。
――『都会なんて夢ばかり』。これ今は手に入らないんですね、、、
世田谷 そうなんです、完売してしまって。僕の手元にもないんです。
――なんとか増刷していただきたいですが……(笑)。そもそもギターを始められたキッカケって、なんだったんですか?
世田谷 ぜひ、文庫化をお願いしたいです。音楽を始めたキッカケですが、僕の世代では多いと思うんですけど、ゆずでした。中2のときにゆずの曲が弾きたいって思って。それまではいわゆるヒットチャートの曲、当時、シングルは8cmでしたけど、ああいうのを親に買ってもらって普通に聞いている子どもでした。
――「自分も弾いてみたい」って思わせる何かが、ゆずにはあったんですね。
世田谷 はい。うちの親も別に音楽をやっていた、というわけではないんですけど、なぜか物心ついた頃には家にギターがあったんです。あとから考えると、うちの親の世代は、かぐや姫とかフォーク・クルセダーズとかが流行った世代で、みんな一度はギターを買ったんだと思います。
――ゆずが流行って、周りが一斉にアコギを買っていた記憶があります。
世田谷 ですよね。自分の場合、買わなくても家にあったので幸運でした。
――でも、多くの人は買っても挫折しちゃうわけじゃないですか。それが続いたのはなぜでしょうか?
世田谷 エッセイ集にも書いたんですけど、うちの親父が僕の弾き語りをずっと聴いてくれていたんです。夜な夜な2人で家でライブをしていました。今考えると自分も親父もどうかしてるなって思うんですけど(笑)。それこそ、ゆずの曲や、稚拙だけどオリジナルの曲をやって、観客は親父ひとりみたいな時間が、学生時代にけっこう長い期間あったんです。
――すごい! 息子の表現を全身で受け止めるお父様、、、息子への愛情を言葉より行動で示してますね。
世田谷 ひとりっ子なので、甘やかされていただけかもしれないですね(笑)。でも自分の人格形成には大事なことだったと思います。これは裏を返すとコンプレックスにもつながるんですけど、僕は今までずっと親から否定されたことがないんです。
普通、就職もせず、こういう表現をやりたいって子どもが言ったら、頭ごなしに否定されることのほうが多いだろうし。そもそも言った本人にしても、実際、そこへ踏み出す勇気がなかなか出ないと思うんです。だから、今こういう表現ができているのは、親父と2人だけのライブのおかげかもしれないですね。幸か不幸か、否定されないことが自信に直結してしまったわけです。
みうらじゅんからの影響
――「名画座」って曲が好きなんですけど、この曲もかなり表裏一体ですよね。都市開発が進んでいくけど、それを喜んでいるばかりじゃない、思い出の場所が潰される人もいる。でもそれは、他方からすると大したことじゃないっていう儚さもあって。こういう曲を作れる人は、どういう人なんだろうって思ってました。
世田谷 自分がやっている音楽の根底には、センチメンタルが基本としてあるのですが、そこでの自分は傍観者であることも多く、俯瞰でそれを見ているところもあるんです。それはずっと自分の中で“やましいこと”だと思っていました。自分勝手な感傷というか。
そもそも自分は、人生の根底を揺るがされるようなひどい目にあったこともないし、友達はいるし、親は優しく、いろいろな面で甘やかされていたことも自覚していたので。僕程度が悩んだり、苦しんでいいのか、という気持ちが常にありました。大学に入ってから、みうらじゅんさんがそんな自分のコンプレックスを言語化してくれていたことを知って救われました。
――「不幸なことに、不幸なことがなかったんだ」ですか?
世田谷 そうです、『アイデン&ティティ』の。そこで音楽をやることに対しての踏ん切りがつきました。
――ゆず以外には、どんなのを聴いてたんですか?
世田谷 ゆずを入口にして、どんどん昔のフォークに派生していきました、吉田拓郎さんが今でも一番好きです。あと友部正人さんとか。
――音楽をやっていこうと思ったキッカケみたいなのはあったんでしょうか?
世田谷 大学時代、どこかぼんやり音楽でゴハンを食べられたら、とは思っていたんですけど、特に行動に移すこともなく、ひたすら1人でやっていました。実家に、昔はカラオケルームとして使っていたらしい、そんなに広くないけど今は使ってない部屋があって、そこで1人でずっと。これも今考えると、かなりどうかしていますね(笑)。
そもそも大学を出るまで、他人の前でギターを弾いたことがなかったんです。なんなら周りには隠してさえいました。でも大学を卒業するという春に、なぜかミクシイで知らない人、五月リョウタという名前で今も歌っているんですが、彼からバンドに誘われまして、そこからいろいろ動き出したんです。
それからは流れるままに、その時その時で声をかけてくれる人がいたり、どんどん自分と自分以外の誰かや場所がつながっていきました。ひたすら内向的だった自分の音楽が、ようやく外に向かって動き出したんです。