友達が彼女を連れていたのが悔しくて曲を作る
――お話しを聴いていて共感したのは、僕の周りでも学生時代は表現やるって言ってた人も、普通に就職するし、そこで就職しないで頑張った人も、25~6歳、遅くても30歳くらいには辞めちゃうんですよね。
世田谷 そうですね、わかります。
――爆発的に売れなくても表現をやめない人って、売れたい、お金持ちになりたいとか、そういう欲求でやってる人じゃなくて、一般的に見たら眉をひそめられるような状況でも、それを苦に思わない人が残ってるというか。
世田谷 うん。僕自身、家がすごく金持ちとかそういうわけではなくて、本当に田舎の一般的な家の生まれなんですが、幸か不幸か、そこまで経済感覚がないまま来てしまったところが確かにあります。でも別に「普通の仕事はできません!」とか、そんな無頼派みたいなノリでももちろんなくて(笑)。普通の仕事をしたとしても、たぶんそれなりに働けてしまうと思うんです。「あいつは音楽しかできないからなぁ」みたいな性質は僕にはないです。
――でも、世田谷ピンポンズの曲や作品からは「表現しかない」っていう強烈なパワーを感じるんです。それは表現を手段にしていないから。それこそ息を吸う、とか、ご飯を食べる、とかに近い感じがして。
世田谷 そういう意味でいうと、中2の頃からずっと、何かあったらすぐ曲にするってことは続けているかもしれないですね。友達が彼女を連れて歩いていたら、それが悔しいから曲にする。日記じゃないけど、何かあったら、その都度それを曲にしてきたので、“寝食”みたいなことに近いと言われたらそうかもしれないです。
これは、みうらじゅんさんの影響が大きいと思います。みうらさんが若い頃に作った曲を何十時間も収録した作品(『DTF 仮性フォーク』)があるんですけど、大学時代はそれを家でひたすら流していました。生活の全てを歌にするみうらさんの楽曲を聴いて、こういうことまで曲にしていいんだって。いや歌にするべきなんだと思いました。
――あれ最高ですよね、ちゃんと今の自分が聴いてのツッコミもあって。みうらさんも世田谷ピンポンズの作品も、しっかりとそこに照れがあるから良いなと思います。
世田谷 ありがとうございます。音楽をやっていこうと思ったキッカケみたいなのが、あまりないかもって話をしたんですけど、最初にやっていたバンドが2年で解散して、じゃあひとりでやる? それともやめる?ってなったときに、ひとりでやっていく道を選んだところが、そうだったのかなと思いました。
そのあと2012年に全国流通盤をリリースできたことや、その翌年に京都に移住したことも、かなり転機になっているかなと自分では思うし、こう振り返ると、選んでないようで実はちゃんと自分で選んできたのかもしれません。
糧になった先輩の言葉、又吉直樹との縁
――ほかに印象に残っている、誰かに言われた言葉はありますか?
世田谷 そうですね……。バンド時代、全然お客さんのいないライブで、そのライブハウスの店長に「お客さんとのあいだに見えない壁ができちゃってるんだよ」って言われて。壁も何も、お客さん2人しかいないじゃんって思ってたら、そのあとすぐに「はい、チケットノルマ2万5000円」って言われて「ライブハウスの店長って、いい商売だな」って、めっちゃ腹立ったのを今思い出しました。
――(笑)。
世田谷 あと本当に未だに自分の根底にあるのは、ミュージシャンの前野健太さんに言われた言葉で、2012年に1枚目のアルバムを出す前くらいだったと思うんですが、前の年に加地等さんという無名だったけどすごいフォークシンガーが亡くなって。その追悼イベントの打ち上げで、前野さんに「加地さんってすごいシンガーが、こんなにすごいまま死んだのに、お前はフォークシンガーとしてやっていけんのかよ」と。あと「お前はもっと本とか詩を読んだほうがいいよ」って。この2つの言葉はずっと心に残ってますね。
――ちょっと辛辣な感じもしますけど、ちゃんと愛を持って向き合ってくれているのが伝わります。
世田谷 結局、1枚目を出したときは何も言葉はなかったですが、2枚目の『天井の染みを数えている間に』には感想を送ってくださいました。その時に「アートワークにやっと歌が追いついてきた」と。大学を卒業するくらいの時期に知り合って付き合った彼女が絵描きをしていまして、ずっと一緒に活動してきました。僕はいつも彼女にアートワークをお願いしているんですが、ずっと彼女の作品に見合う歌を、と思って頑張っていたので、それは自信になりました。
――熱い話ですね! 世田谷ピンポンズといえば、最初に言った尾崎さん以外にも、さまざまな方とのつながりが気になるんですけど、ピースの又吉直樹さんとはどういうキッカケだったんですか?
世田谷 作品をリリースしたタイミングでいつも、面識のあるないに関わらず自分の好きな方にCDをお送りしていました。たぶん本人までは届かないだろうなって思いながら。そしたらある日、よしもとからメールが来て「又吉さんが対談をしたい、って言っているんですけど、どうですか?」と。
――ちゃんと又吉さんが聞いていたっていうことですね。
世田谷 会って話を伺ったら、実は僕がCDを送る前から僕のCDを下北沢のディスクユニオンで見かけて、買ってくださっていたんです。気になった歌詞を携帯にメモまでしてくれていて。そんなときにちょうど、僕からCDが届いたので「あれ? 俺どっかで世田谷ピンポンズが好きって言うたかな?」って思ったらしいです。そこから、又吉さんが書いた詩に曲をつけたり、ライブに呼んでいただいたり、交流が続いています。
――縁を感じる話ですね!
世田谷 勝手にシンパシーを覚えていた方に、自分の表現が良いって思ってもらえたのは、とてもうれしかったですね。
――これから挑戦したいことはありますか?
世田谷 今後どうなるかわからないですけど、やっぱりライブはやっていきたいなと思います。コロナ禍もあって、1年以上、人前でのライブにブランクがあったんですけど。この前、久々にライブしたら忘れていた感覚がたくさんあって。やっぱり定期的にやらないとダメだなって思いました。
あとはどういう形態になるかわからないですけど、新曲も発表したいし、今は「TV Bros.web」で連載もやらせてもらっているので、文筆業もどんどんやっていきたいです。これまではエッセイを書くことが多かったのですが、小説も書いてみようと思っています。