各地に戦争犯罪を告発する博物館を建設

1991年にソ連邦から離脱し、独立を取り戻したバルト三国は、その後もソ連・スターリンの戦争責任追及を止めませんでした。各地にソ連・スターリンの戦争犯罪を告発する博物館を建設し、その実態を克明に記録し、語り継ごうとしているのです。

例えば、エストニアの古都タルトゥに建てられているKGB監獄博物館(KGB PrisonCells)の売店で購入した、歴史の記憶に関するエストニア研究所編『ソ連化と暴力(Sovietisation and Violence: The Case of Estonia)』(2018年発行/未邦訳)には、こう書かれています。

《バルト諸国で政治的逮捕が最も多くなったのは1945年のソ連による再占領以降のことであり、大規模な強制移住が行われたのは、1948~1949年(リトアニア)および1949年(エストニアとラトビア)のことだった。1949年3月の強制移住の際には、ものの数日のうちに2万人以上の人々がエストニアからシベリアに送られたが、さらに1万人が移住させられる予定だった。》(拙訳)

こうした悲劇は、1939年の独ソ「秘密議定書」に基づいて、ソ連から侵略されたことに始まったのですが、バルト三国の追及はそれだけに留まりません。ソ連の侵略を容認した英米諸国の責任をも追及しているのです。

ラトビアの首都リガには、ラトビア占領博物館があり、第二次世界大戦中にソ連、ナチス・ドイツ、そして再びソ連に占領された時代の苦難の歴史が展示されています。

▲ラトビア占領博物館 出典:江崎氏提供

この展示で目を引いたのは、大西洋憲章に関する展示でした。そこにはこう記されてあったのです。

《ドイツの降伏後、ラトビア国民は、1941年8月14日に大西洋憲章で宣言されたのと同じ自決の原則がラトビアにも適用されると期待していた。だがそうはならず、ラトビアは再びソ連に占領された。1944年の夏、赤軍(ソ連軍)がまたもやラトビアの領土を侵略し、1944年10月13日にリガを占領した。ラトビアの東半分はソ連の占領下に入った。西部(クルゼメ州)は1945年5月8日の第二次世界大戦終戦までナチスによる支配が続き、そのあとソ連に占領された。その後46年間、ラトビア全土はソ連に占領されたままだった。》(拙訳)

※本記事は、江崎道朗:著『日本人が知らない近現代史の虚妄』(SBクリエイティブ:刊)より一部を抜粋編集したものです。