国家の意思を示すのに私文書でいいんですか?

倉山 古代・中世・近世の歴史学って、この文書はいったい何年に作られたのか(1年でも変わったら中身の解釈が全部変わってくるので)と、そういう議論ばっかりしていますね。中身を読み解くときも、誰に宛てて、誰が出したのか。差出人が変わったから、こっちのほうが格が上がったんだとか、そういう形式論でやられているんです。けれど、近代史研究では形式論の議論はほぼないですよね。

江崎 世界の歴史学者たちや国際政治学の人たちは、その形式論の議論を踏まえてやるのが基本になっていますよね。中国系アメリカ人のアイリス・チャンが、1997年にアメリカで『ザ・レイプ・オブ・南京』という本を出したことを受けて、英語で反論の本を書いたんです。

その当時の日本では、南京の人口が減ったとか増えたとか、ジョン・ラーベとかベイツがこういうふうなことを言っていたのは信用できるのかできないか、という論点で議論されていたんです。だけど、アメリカ情報部の人と議論していたときに問題になったのは、公文書のあるなしでした。

南京事件はホロコーストであり、組織的・計画的に中国人を殲滅するつもりであったということをアイリス・チャン女史は言っている。けれども、組織的・計画的に日本軍が中国人を殺害しようとすることを根拠づける証拠はないし、中国側も提示していない。日本軍によって殺されたという証言は個別にはあるけれども、組織的・計画的に国家の意思としてそういうような指示を出し、それに基づいてそういう残虐行為をやったということを立証する公文書はない。よって、反論本では「南京大虐殺はなかった」ではなく、「南京大虐殺があったことを立証する証拠はない」と主張しました。

倉山 当時の日本の最高意思決定機関は御前会議なので。御前会議でどういうことが決定されたかの文書を読めば、そんなものはどこにもない。閣議決定を見てもない。

▲1944年(昭和19年)の御前会議 出典:ウィキメディア・コモンズ

江崎 現場の指示は、逆のほうの指示しか出していない。中国側はそういうことがあったんだと批判するけども、それを立証づける文章は提示できていないわけですよ。それで「ミニー・ヴォートリンの日記」とか「ラーベ日記」とかを出してくるんです。ある意味、私文書だって使い方によっては使えるんですけど、問題は「国家の意思を示すのに、私文書でいいんですか?」ということですよね。

倉山 そうです。少なくともラーベがそう言ったということ、それは事実だ。だけど、日本政府が組織的・計画的に、中国人を殲滅・虐殺するというようなことを掴んでいたのかということに関して、ラーベはそんなことは一言も言っていないわけです。ポイントはそこで、そういうアーカイブの議論を踏まえないと、歴史戦では戦えないんです。

江崎 ということですよね。

▲国立公文書館 出典:Caito / PIXTA

江崎 そういう意味では、倉山先生がこういう本を書いてくださったのは非常にありがたいのですが、真面目に、国際的な歴史戦のことを考えていこうと思うのならば、なによりアーカイブの世界に馴染むことが大切です。難しいのはわかりますが、馴染みがないからといって難しいと言っては駄目なんです。馴染めばわかるんです。

倉山 馴染みがないだけですから、これからは馴染むような人がどんどん増えていかないとだめですね。慰安婦問題に関しても、閣議決定で「従軍」という言葉を使っちゃ駄目だというふうにしましたが、こういうことに対する戦いひとつ取ってみても、日本はおかしいんですよね。だって、我が国の戦前の公文書には「従軍慰安婦」という言葉はないわけですから。

江崎 そんな単語はないですね。

倉山 ないんです。「ない」というファクトに基づいて我々は戦うべきなんですよ。戦う力はあるんだ、ということを理解してもらいたいですね。


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