関東の神社仏寺に祈祷を命じ義経を捜索

義経の消息については、大和国吉野山に潜伏しているのが発覚してから、多武()()(現在の()()神社)に向かったところまでつかめていました。

▲談山神社(著者撮影)

義経が多武峰に向かったのは、蘇我氏打倒の政変で中核を担った()()()()(のちの()()()())にあやかろうとしたに違いなく、同じ目的から、他の有力寺社を訪れる可能性がありました。

「神出鬼没な義経を見つけ出すのは人知の及ぶところではなく、ぜひとも神仏に頼るべきです」。頼朝は人びとの意見に従い、鶴岡八幡宮寺をはじめとする関東の神社仏寺に祈祷を命じました。すると若宮別当の円暁から「上野国の金剛寺で義経に遭遇する」との夢のお告げを伝えられますが、完全な空振りに終わります。

そんななかで、頼朝がもっとも警戒したのは、やはり伊勢大神宮でした。大神宮は朝廷の許可なき祈祷は受け付けないとしていましたが、逆に言えば、祈祷が行われた件に関しては朝廷が承諾済みということです。頼朝としても後白河と正面からやり合うつもりはなかったので、伊勢大神宮については、周囲から過敏と思われるほど神経を使わざるをえませんでした。

案の定、『吾妻鏡』の1186年3月15日条には「義経が大神宮に現れ、所願成就のためと称して金製の剣を奉納した。この大刀は合戦の際に身につけていたもの」という記事が見られます。

同じく1186年6月7日条には、神祇官に奉職する大中臣()()からの書状で「先頃、義経が伊勢国に現れて大神宮に参詣したこと」、現在は奈良あたりに潜伏中との噂に加えて「祭主の大中臣()()が、義経に内通して祈祷を行ったようです」との報告を受けていますが、能隆には公宣と祭主の座を巡って争った経緯があることから、頼朝は内通と祈祷に関しては半信半疑だったようです。

祭主とは、伊勢大神宮にのみ置かれた神官の役職で、天皇の代理として祭祀を管理することに加え、朝廷と神宮との仲介を主宰する要職です。大中臣氏により世襲されましたが、役得が大きいことから、一族内で争奪戦が絶えなかったのです。

確たる証拠は見つからなかったようですが、頼朝の不安は去らず、『吾妻鏡』の同年閏7月28日条によれば、伊勢皇太神宮(内宮)の()()を鎌倉に呼び出し、駿河国の()()御厩)を寄進しています。義経ではなく、自分に味方するのが賢明と、露骨に鼻薬を()せたかっこうです。

これより少し前、義経が6月20日頃まで比叡山に潜伏していたことがわかっており、頼朝から詰問を受けた比叡山では、座主以下の門徒や())(監督官)たちがあれこれ対応を協議したあげく、捜索のための祈祷を申し出てきたとする記事が、『吾妻鏡』の同年閏7月26日に見られます。

同じく『吾妻鏡』によれば、義経が奥州へ向かったことが判明したのは1187年2月10日のことですが、頼朝はそれ以前に伊勢大神宮の去就に関して把握していたのか、同年1月20日には祈祷への礼として、神馬8頭、砂金20両、剣2腰を奉納しています。現在の貨幣価値に換算するのは難しいですが、少なくとも祈祷の礼としては破格の数字と見てよさそうです。