明治ベンチャー産業だった農業と養蚕

日本が開国したとき、農業は最先端のベンチャー産業でした。

農業というと、現在では守らなければならない存在のようなイメージで見られていますが、商売で儲けようという企業家精神に富んだ人たちが担っていた、当時の成長産業なのです。

たとえば、お茶というと静岡茶が有名です。江戸時代、静岡で作られるお茶は「御用茶」として幕府に献上されていましたが、お茶の栽培が大きく拡大したのは、日本の開国以後、横浜港が開港してからのことです。静岡のお茶は、その多くが外国の貿易商社に販売される輸出産品を育てることによってできた商品作物でした。

▲長火鉢を囲んで茶を愉しむ(明治時代) 出典:ウィキメディアコモンズ

このほか、養蚕(ようさん)もベンチャー産業です。養蚕は幕末に衰退の傾向が続きますが、安政6年(1859)の「横浜開港」と国際情勢によって、一気に躍進した産業です。

当時、ヨーロッパで蚕の伝染病が流行り、日本産の生糸が世界に打って出る契機となったのです。明治初期の人たちは、生糸の国際価格動向をにらみ、情報を集め、相場にもとづいて商売の判断をしていました。

▲大日本蚕糸会と会頭の松平正直男爵 出典:望月小太郎(ウィキメディアコモンズ)

貿易において、情報はとても重要です。政府による情報の独占がなくなり、企業家精神を持った人たちが情報を扱えば、欧米列強に比べて産業が後発の日本でも勝負していくことが可能だったのです。

立場の違いによって、新しい状況への評価は異なります。江戸時代末期の幕府のように、今日も明日も、変わらぬ日常が続けば事足れりという人たちは、実際には昨日より今日、今日より明日が衰退していっていることに気付かないものです。現代の「失われた30年」も、そういう人たちによって作られてきました。

これからの日本経済は、減税や規制の廃止によって、もっと自由な形にしていくことが大事です。経済が発展することは、すなわち人・モノ・金・情報を集め、これらを活用する正しい判断のできる人材が表舞台に登場することです。いろいろな規制、何かを義務付ける細かなルールがたくさんあると、そうした人材はルールにがんじがらめにされて、活躍の舞台に上がることができないのです。

開かれた自由な社会、自由のもとでフェアな競争ができる社会、競争の結果として正当な報酬が得られる社会を目指すこと、言い換えれば人材が活躍しやすく、お金がより意味のあるものに使われやすい状況を作っていくことが、これからの日本経済にとって何より重要なことなのです。

▲明治ベンチャー産業だった養蚕 イメージ:PIXTA