暗殺されたのは午後8時(戌の刻)の可能性大

義時は1163年の生まれと推測されますが、この年の干支は癸未(みずのとひつじ)ですから、動物だと羊にあたります。おそらく義時の誕生日が十干十二支で「戌」の字の付く日だったのでしょう。

戌神は戌の刻・戌の方角を担当ですが、この点はどうかといえば、『吾妻鏡』には実朝暗殺事件が起きた時間帯を、単に「夜」としか記していません。ただし、実朝が御所を出立したのが酉の刻(午後5~7時)とありますから、神拝を終えた実朝が帰途に着いた時間帯は、戌の刻であった可能性が大です。

残るは戌の方角ですが、義時の屋敷から見て鶴岡八幡宮寺がその方角にあたるので、これを指すものと見てよいでしょう。

また、『吾妻鏡』の1219年1月27日条には「そもそも今日の不祥事については、前々から異変を示すような出来事がいくつもあった」として、大江広元が突然の涙に襲われ、実朝が禁忌の和歌(菅原道真の歌を改変)を詠み、不思議な鳩がしきりに鳴きさえずり、牛車を降りた時に剣が折れたといったことが挙げられています。

しかし、中国の『後漢書』と『三国志』にある董卓誅殺直前の出来事と似すぎていることから、これら予兆のすべては意図的な創作と見てよいでしょう。すべては源氏将軍から北条氏への権力の完全な移譲を正統化するための小細工です。

武門源氏の氏神である八幡大菩薩から再三予兆を下されたにも関わらず、実朝はその意味を悟らなかった。だから殺されたのだとすれば、今回の事件は実朝の咎(とが)ということで済まされるからです。

公暁にしても、武門源氏の氏神を祀る八幡宮内での凶行が、聖域を汚す重大な罪と承知していたはずですが、それと同時に、氏神が実朝と自分のどちらに味方するか、事の成否で神意を問う気持ちが働いていたかもしれません。

▲公暁が隠れていたといわれる鶴嶺八幡宮の大銀杏。2010年に倒れる(著者撮影)

義時を実朝暗殺の黒幕とする確証はありませんが、少なくとも公暁の凶行については、あらかじめ情報を掴んでいたとしか思えません。詳細はつかめずとも、凶行が実行されるとすれば、実朝の警固がもっとも薄く、周囲に人がもっとも少なくなる場所と時間帯であるはずで、義時はそれを見計らい、仮病を使ったのではないでしょうか。

ただし、義時は脚気に苦しみ、霍乱を併発することもあったといいますから、健康体と呼ぶにはほど遠すぎました。脚気はビタミンB1の不足に起因する諸症状、霍乱は現在で言う急性腸炎なので、50代半ばという年齢も考慮すれば、いつ発病してもおかしくはありませんでした。

持病によって、にわかに意識が朦朧とすることもありえますが、事件当夜の義時は境内の神宮寺で休んでいたところ、すぐさま正気に戻り、帰宅したとあります。明らかに病状が異なるので、やはり仮病と見てよいかと思います。持病があるからこそ、周囲の誰も信じて疑わなかったのではないでしょうか。

▲源実朝首塚 出典:taking_the_veil / PIXTA

実朝の死がもたらした衝撃は大きく、鎌倉では百余名の御家人が悲しみに堪え切れず出家を遂げます。そのなかには安達景盛や二階堂行村、加藤景廉ら長老格もいれば、大江広元の子親広・時広のように若い者の姿もありました。

これだけを見れば、実朝は惜しまれて亡くなったと言えそうですが、実のところ鎌倉の御家人全体としては、幕府を守るためのやむをえない成り行きとする受け止め方が多数を占めていました。

実朝が後鳥羽の要求をことごとく受け入れていることに、御家人たちが苛立ちと危機感を募らせていたからです。