「さりげなく命がけという生きざま」をリングで見せてくれた三沢光晴。昨年、そんな彼のノンフィクション大作を上梓した元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏が、幼少期、アマレス時代、2代目タイガーマスク、超世代軍、三冠王者、四天王プロレスを回顧しつつ、三沢の強靭な心をさまざま証言から解き明かす。今回は、外国人4強の壁を乗り越え、至高のプロレスラーとなった男の背中から学ぶべきこと。

“四天王プロレス”が生まれた日

▲ジャンボ鶴田の離脱後、リング上を席巻したのは四天王だった

完全無欠のエースと呼ばれたジャンボ鶴田が、B型肝炎によって長期欠場に入って半年、1993年5月から全日本プロレスのリング上は新しい図式になった。

4月の『93チャンピオン・カーニバル』中に、川田利明が超世代軍を離脱して田上明と共闘することを表明。5月14日の後楽園ホールにおける『スーパー・パワー・シリーズ』開幕戦から川田&田上のコンビが始動し、それまでの鶴田軍vs超世代軍から超世代軍vs川田&田上連合軍(のちに「聖鬼軍」と命名)が戦いの軸になったのである。そして川田の離脱に伴い、三沢光晴のパートナーは小橋健太(現・建太)になった。

新体制初のビッグマッチは、5月20と21日の札幌中島体育センター2連戦。初日の20日大会では、セミファイナルで三沢&小橋が元世界タッグ王者のスタン・ハンセン&ダニー・スパイビーと対戦し、小橋がムーンサルト・プレスでスパイビーをフォール。

メインでは、川田&田上がテリー・ゴディ&スティーブ・ウイリアムスの殺人魚雷コンビの世界タッグ王座に挑戦して、田上がウイリアムスを喉輪落としでフォール。川田&田上はコンビ結成1シリーズにして、いきなり世界タッグ王座奪取という最高の結果を出したのである。

翌21日大会は4大シングル戦。まず、前日に世界タッグ王者になった田上がスパイビーと激突した。流血させられ、9分過ぎにはスパイビー・スパイクを食って窮地に立たされた田上だったが、お返しとばかりにDDTを炸裂させるとバックドロップ、喉輪落としの大技攻勢に。最後はラリアットをブロックし、全体重を浴びせかける喉輪落としで、これまで一度も勝ったことのなかったスパイビーから初勝利を挙げた。

続いては小橋だ。2月28日の日本武道館では、シングルでもタッグでも一度も勝ったことがなかったスパイビーにムーンサルト・プレス2連発で勝利した小橋の今度の相手は、ハンセンと並ぶ外国人トップのゴディ。ゴディとは、92年8月31日の橿原(かしはら)体育館、1か月半前の4月7日の大分県立荷揚町体育館におけるカーニバル公式戦で30分時間切れを演じており、突破まであと一歩に迫っていた。

そして、三沢とともに超世代軍を背負っていくことになった小橋は、ムーンサルト・プレスで見事にゴディの壁を突破した。

セミファイナルでは、川田が前日大会で世界タッグを戦ったウイリアムスと一騎打ち。チョップ合戦、張り手合戦のあと、川田が顔面にハイキックをぶち込めば、ウイリアムスは顔面に右フックをぶち込むという殺伐とした戦いに。この喧嘩マッチを制したのは川田だ。延髄ラリアット、ジャーマン・スープレックス、そして最後は狙いすましたラリアット! これで川田はウイリアムス相手にシングル初勝利となった。

メインは三沢の三冠ヘビー級3度目の防衛戦。前年8月22日に渾身のエルボーバットでハンセンを沈めて三冠初戴冠を果たした三沢は、10月21日の日本武道館で川田をタイガー・スープレックスで仕留めて初防衛、年明け2月28日に日本武道館ではタイガー・ドライバーで田上の挑戦を退けた。そんな三沢の前に立った3人目の挑戦者は、前王者のハンセンである。

前回の三冠戦ではエルボーバットで失神させられているハンセンは、フェンス、鉄柱、テレビ放送席のモニターを使って徹底した右腕殺し。リングに戻ると、ニードロップを投下し、ストンピングで踏みにじり、アームロック、脇固めの猛攻だ。

これに対して、三沢は20分過ぎから執拗なフェースロックで反撃。それは最後の一発への伏線でもあった。「これだけ俺の右腕を集中的に攻めてくるということは、ハンセンは俺のエルボーを怖がっている」と感じ、一発に賭けたのである。

その瞬間は25分過ぎに訪れた。ハンセンのフロント・ハイキックを両手でキャッチすると、それを軸に一回転してのエルボーバット! 遠心力を使ったローリング・エルボーを左顎に食らったハンセンは、立つことができなかった。

敗れたハンセンは「三沢、コングラチュレーション。私は左腕のナンバー1の使い手だが、三沢は右腕のナンバー1の使い手だ。あんなに痛めつけたのに、今日の勝者は三沢だ」と、三沢の勝利を素直に称えた。

札幌2連戦……終わってみれば三沢・川田・田上・小橋の4人は、シングルでもタッグでも、かつては格上だった外国人四天王を凌駕した。そして4選手を総称して「四天王」なる言葉が生まれた。札幌2連戦を報じた週刊ゴング第465号の表紙にも『“四天王時代”到来‼』の見出しが躍った。

そして、ジャイアント馬場5000試合達成記念試合が行われた6月1日の日本武道館は、川田&田上に三沢&小橋が挑戦した四天王による世界タッグ戦がメインになり、超満員札止め1万6300人を動員。29分12秒の激闘の末、川田がパワーボムで小橋を仕留め、大観衆を熱狂させた。

「あの試合は、日刊スポーツの一面にもなったはずだよ。そのあたりから俺は本当に四天王の時代を実感したよ。札幌で外国人四天王を破った日本人の四天王同士が武道館で戦って、内容のあるすごい試合をしたわけだから、一気に四天王時代が来た感じだったよね」(渕)

鶴田不在のなかで、全日本のリング上は、ごく自然な形で世代交代がなされて四天王時代に突入していったのである。

▲四天王の激しい戦いにより日本武道館大会はプレミアムチケットと化した