小橋がいちばん近くで見た三沢の背中

▲間近で三沢の背中を見ていた小橋は、今もプロレスの魅力を伝え続けている

超世代軍vs聖鬼軍の四天王時代に突入した93年の掉尾を飾ったのは『93世界最強タッグ決定リーグ戦』。

三沢&小橋、川田&田上の両チームは、ともに馬場&ハンセンの巨艦砲と時間切れ引き分けになった以外は全勝で、12月3日の日本武道館で最終公式戦を迎えた。勝ったチームが優勝、時間切れ引き分けなら馬場&ハンセンを加えた3チームが同点首位になって優勝決定巴戦。両軍リングアウト、ノーコンテストなどの0点試合なら巨艦砲の優勝、という混沌とした状況での激突である。

四天王時代に突入して初めての日本武道館大会となった6月1日の世界タッグ戦による両チームの対決は、馬場が「こんな素晴らしい勝負は初めて観た」と絶賛。心技体が充実した四天王プロレスは、鶴田vs超世代軍とは違う同年代同士ならではの激しさがあった。

タッグ名勝負数え唄のスタートを予感させた6・1日本武道館決戦から半年……先に連係を見せたのは三沢&小橋だ。ダブル・ドロップキックで田上を場外に転落させると、小橋がスライディングキックでさらに吹っ飛ばし、そこに三沢がエルボー・スイシーダ! これに対して川田&田上は、三沢にバックドロップと喉輪落としの合体殺法、田上の高角度パワーボムから、すかさず川田がラリアットと大技攻勢に出る。

ハイレベルな攻防戦のなかで最後に踏ん張ったのは小橋だ。当時の小橋は、四天王と呼ばれながらも他の3人より格下に見られていた。6月の世界タッグでも川田のパワーボムに苦杯をなめているだけに、ここで何がなんでも結果を出さなければいけなかった。

川田にパワーボムをリバースされ、リングに躍り込んだ田上のバックドロップで意識を失いかけていた小橋だが、三沢がローリング・エルボーで田上を場外に吹っ飛ばし、さらに川田にローリング・エルボーから投げっ放しジャーマンを炸裂させて救出。そして小橋に「行け!」と檄を飛ばして、場外の田上にエルボー・スイシーダ。三沢はパートナーになって頑張ってきた小橋に最後の勝負を託したのだ。

その期待に応えて、小橋は川田に高角度のバックドロップ! それは小橋が誰よりも数多く食らったウイリアムスのデンジャラス・バックドロップそのものだった。脳天から叩きつけられた川田は返すことができなかった。

23分34秒、川田から初めてフォールを奪った小橋は男泣き。最強タッグ初優勝と同時に世界タッグ初戴冠を果たして、他の3人と並び立ったのである。それは真に四天王時代が到来した瞬間だった。そして三沢は前年と同じく5冠王として1年を締め括った。

その後、三沢&小橋は、今も破られていない最強タッグ3連覇の偉業を達成する。三沢とのコンビを小橋はこう振り返る。

「僕がテレビで見ていた頃は馬場さん、鶴田さんがチャンピオンであって、僕が入門してからも三冠を統一したのは鶴田さんで、僕もレスラーとしてその場にいて“いつかは僕もあのベルトを巻きたい!”と思って見ていたわけですよ。

だから、馬場さんと鶴田さんは遠いイメージだったんですけど、三沢さんが鶴田さんに勝った時には肩車しましたし、そのあとに超世代軍で一緒になって、そして三冠チャンピオンになった姿も近くで見て……だから、間近で背中を見てチャンピオンというものを学ばせてもらったのは三沢さんですね。“男は背中で語る”と。

あれこれ言う人ではなく“自分に責任を持って、自分自身で考えろ”っていう感じでした。“俺は俺のやり方でいくんだ!”っていう背中を見せてもらったので、僕も“自分のやり方で、どんな相手とでも試合を積み上げていこう”と心に決めました。

指図されるのではなく自由にやらせてくれましたけど、自由って難しいんですよ、自分自身がしっかりと信念を持っていなければ。その後に僕も自分のチャンピオンの時代がありましたけど、三沢さんの影響は大きかったと思います。三沢さんは優しくもあり、厳しくもあり、自分の信念をしっかり持ったうえで、周りを自由にさせる心の広さがありましたね」

三沢の小橋に対する姿勢は、のちの“自由と信念”というプロレスリング・ノアのスローガンにつながるものがあったのだ。

ここから三沢たち四天王プロレスは激しさを増し、受け身が取れない究極のプロレスへと進化していく――幼少期、アマレス時代、2代目タイガーマスク、超世代軍、三冠王者、四天王プロレス、そして至高のプロレスラーへ――自然体でプロレスに心身を捧げた三沢光晴の青春期の生きざまを、ぜひ拙著『至高の三冠王者 三沢光晴』を通じて体感してほしい。

▲プロレスに殉じた男の強靭な心を忘れることはないだろう

※本記事は、小佐野 景浩​:著『至高の三冠王者 三沢光晴​』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。


<お知らせ>
『至高の三冠王者 三沢光晴<電子特別版>』2022年3月25日より配信決定! 紙書籍に未収録の【電子書籍化に寄せて】を追加した電子特別版です。小佐野景浩氏よる若かりし日の三沢光晴の貴重なインタビューにご期待ください。
 
プロフィール
三沢光晴(みさわみつはる)
1962年6月18日、北海道夕張市生まれ。中学時代は機械体操部に入部し、足利工業大学附属高等学校に進学するとレスリング部に入部。3年時に国体で優勝などの実績を残し、卒業後の81年3月27日にジャイアント馬場が率いる全日本プロレスに入団。その5か月後にはデビューを果たすなど早くから頭角を現す。メキシコ遠征ののち、84年8月26日に2代目タイガーマスクとしてデビュー。翌年にはNWAインターナショナル・ジュニアヘビュー級王者を獲得する。90年に天龍源一郎が退団すると、試合中に素顔に戻り、リングネームを三沢光晴に戻し、超世代軍を結成。果敢にジャンボ鶴田やスタン・ハンセンなど大きな壁に挑むひたむきな姿で瞬く間に人気を博す。92年8月に三冠統一ヘビー級王者を獲得すると、名実ともに全日本プロレスのエースとして君臨。川田利明、田上明、小橋健太との“四天王プロレス”では極限の戦いを披露した。その後、全日本プロレス社長就任と退団を経て、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。社長兼エースとして日本プロレス界をけん引する。2009年6月9日に試合中の不慮の事故で46歳の若さでこの世を去るも、命を懸けた試合の数々とその雄姿はファンの記憶の中で今なお生き続けている。