「さりげなく命がけという生きざま」をリングで見せてくれた三沢光晴。昨年、そんな彼のノンフィクション大作を上梓した元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏が、幼少期、アマレス時代、2代目タイガーマスク、超世代軍、三冠王者、四天王プロレスを回顧しつつ、三沢の強靭な心をさまざま証言から解き明かす。虎の仮面を脱ぎ捨てた三沢、その前に立ちはだかった最強の怪物王者・ジャンボ鶴田との激闘はいかなるものだったのか。

「未来を三沢に賭けた!」という全日本の決意

▲虎の仮面を脱いだ三沢は臆することなく鶴田に向かっていく(写真は90年6月8日)

天龍源一郎の退団、谷津嘉章の仕掛けはあったにせよ、最終的に三沢が素顔になったのは、自分自身の意思だった。そして、それはあらかじめ用意されたものではなく、アドリブだったことは、マスクを脱いでからの8大会、三沢光晴で出場してもタイツとシューズはタイガーマスクのコスチュームのままだったことでもわかる。

天龍退団で沈滞ムードだった全日本は、三沢の行動に社運を賭けた。天龍退団後、馬場の懐刀になり、マッチメークに関わる渕正信は、東京体育館の試合後、三沢たちの若い世代に「スピード感、意外性……もう、若さを全面に出すしかない。それを鶴田さんや俺にぶつけてこい。全部受け止めるし、こっちも容赦なくいくから。とにかく鶴田さんを怒らせろ、本気にさせろ。今のままだったら天龍さんの迫力には勝てないから」と激を飛ばした。

渕にとっては“鶴田を落とさずに三沢を上げる”というのが大きな課題だったのだ。

三沢と鶴田の初激突は、5月21日の南国市立町民体育館。川田&田上と組んだ三沢は、鶴田&ザ・グレート・カブキ&サムソン冬木と対戦し、東京体育館と同じく冬木をジャーマン・スープレックスでフォール。このカードはその後も2回実現し、23日の福山市体育館では、鶴田がバックドロップで田上をフォール、25日の名古屋の愛知県体育館では、冬木が飛びつき腕十字固めで田上をフォールし、ベテラン軍にリードされた。

その名古屋大会の試合後、鶴田が「いつでもやってやる!」とマイクで挑発すると、三沢は猛然と鶴田に殴りかかり「リングの上に上がったら、親の仇のつもりでいくよ。鶴田さんも、いつまでも“お山の大将”でいたら危ないよ!」と言い放った。虎のマスクの下から、激しい三沢光晴が顔を出し始めたのだ。

5月26日、後楽園ホールの試合前に6月8日の日本武道館のカードが発表された。メインイベントは鶴田vs三沢の一騎打ちだ。その3日前の6月5日の千葉で、鶴田にテリー・ゴディが挑戦する三冠戦が決まっていたためにノンタイトル戦になったが、これは事実上、全日本の「未来を三沢に賭けた!」という決意表明である。

「プロレスの魅力は、デカい体の持ち主がバシャーンとぶつかって飛沫が飛ぶ。その迫力がお客を惹きつける。要は、普通の人が真似できないことをやるのがプロレスなんだ」というのが持論の馬場は、本来なら186㎝、110㎏の三沢をトップに据えることはなかっただろう。エースになるべき人間は、外国人選手に負けない体格のヘビー級。理想は196㎝、125㎏超の鶴田であり、189㎝、120㎏の天龍がギリギリだったはずだ。

また、馬場はレスラーの格やプライドを重んじる。日本武道館のメインで三沢をぶつけるのは、鶴田の格とプライドを考えると、馬場として躊躇するところだった。だが、馬場も三沢に賭けた。先に鶴田とゴディとの三冠戦を組み、それを大義名分に三沢戦をノンタイトルにしたのは、馬場の鶴田に対するせめてもの配慮だったのだ。

このマッチメークについて、レフェリーの和田京平は「ジャンボ鶴田なくして、三沢も四天王プロレスも語れないと思うよ。あの大舞台でジャンボが“いいよ、三沢君、おいで”って真っ向から受けてくれたという。だって三沢はジャンボの付き人だったんだよ。それが武道館だよ、メインイベントだよ。そのカードしかなかったんだけど、ジャンボがそれを受け入れてくれたんだから」と言う。

▲鶴龍対決を経て“怪物”に三沢が勝つと予想した人は少なかった