「さりげなく命がけという生きざま」をリングで見せてくれた三沢光晴。昨年、そんな彼のノンフィクション大作を上梓した元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏が、幼少期、アマレス時代、2代目タイガーマスク、超世代軍、三冠王者、四天王プロレスを回顧しつつ、三沢の強靭な心をさまざま証言から解き明かす。最強の怪物王者・ジャンボ鶴田に勝利した三沢。彼の飛躍とともに、到来した空前の超世代ブームとはなんだったのか。

若者と女性の心をグッと掴んだ「超世代軍」の誕生!

 ▲「超世代」とは文字どおり、鶴田を本当の意味で超えるためのユニットだった

選手の離脱騒動はあったものの、三沢がジャンボ鶴田に勝った効果は大きかった。1990年6月30日に後楽園ホールで開催した日本人選手だけの、わずか5試合の『ワンナイト・スペシャルin後楽園』が、前売りの段階で完売になったのである。

セミファイナルで川田利明と小橋健太(現・建太)が、26分18秒の熱闘で超満員の観客を沸かせ、メインイベントの鶴田&ザ・グレート・カブキ&渕正信vs三沢&田上明&菊地毅では、メイン初登場の菊地が、鶴田軍の集中砲火を浴びながらも大健闘して、後楽園ホールは大・菊地コールに包まれた。最後は渕のダブルアーム・スープレックス・ホールドに敗れたが、“火の玉小僧”が誕生した試合だった。

この日の観客は、若者や女性ファンが多く、それまでのファン層とは明らかに違っていた。この大会が“超世代ブーム”の原点になったと言ってもいい。

だが、全日本の激震は続いた。続く7月の『サマー・アクション・シリーズ』で谷津嘉章が離脱。パートナーを失った鶴田は、カブキをパートナーに7月19日の武生市体育館で、ゴディ&ウイリアムスから世界タッグ王座を奪取したが、シリーズ終了後にはカブキも辞表を提出してSWSに走った。

谷津、カブキというビッグネーム2人が去ったことで、世代闘争の存続が危ぶまれたが、三沢・川田・田上・小橋・菊地は、シリーズオフの8月1日から千葉・上総一宮海岸で3泊4日の夏季合宿を行った。3日にはジャイアント馬場が訪れたことに「この若い世代に賭けるしかない!」という全日本の覚悟が見て取れた。鶴田らの上の世代に挑んで超えようとする彼らは「超世代軍」と呼ばれるようになった。

なお、鶴田サイドの戦力は、渕しかいなくなってしまったことから、馬場は急遽、田上を超世代軍から外して鶴田のパートナーに抜擢した。それは大きい鶴田なら、192cm・119kgの田上に大きいプロレスを教えられるだろうと思ったからに違いない。

「あの時は“千葉で合宿やってるから来い!”って言われたから行ったのに、急に呼び戻されて鶴田さんと組むように言われて“俺は何しに来たのかなあ? 超世代軍の合宿はなんだったんだ⁉”って(苦笑)。

鶴田さんには、そんなに技のこととか、深いことは言われなかったけど、試合の流れについて“あそこはこうやったほうがよかったぞ”とか“こうやって持っていくんだ”とかっていう感じで、試合の組み立てを教わったよ。鶴田さんと組ませてもらったのは勉強になったね」(田上)

▲鶴田と田上の“鶴明砲”はもっと長く見ていてかった名チームである