私たちにはたくさんの税金が課されています。しかし、納税のための手続きが複雑だったり、納めた税金があまり必要のないことに使われていたり……。国民が納得して税金を納めるためには、どんな仕組みが必要なのでしょうか? 国際情勢アナリストの渡瀬裕哉氏が、税金のあるべき姿について語ります。
※本記事は、渡瀬裕哉:著『無駄(規制)をやめたらいいことだらけ-令和の大減税と規制緩和-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
新型コロナで問題になった「財産権」について
日本国憲法の第二十九条には財産権について書かれており、第三十条には納税の義務が書かれています。経済活動の根本と、国家運営の根幹に関わる条文がこの二つです。
たとえば、誰かが頑張ってビジネスをします。どんなに頑張っても「あなたのその財産は、明日から全部没収です」と言われてしまったら、誰も真面目に商売をしません。経済活動の根本は、まずみんなの財産権が保障されていなければならない、ということです。
財産権は、最初に人権という概念が出てきたときの原則となった考え方です。公権力が私有財産に介入することは、人権侵害なのです。そこで、公共の福祉という目的がないと、私人の財産権を制限することはできないと定められています。
ここ最近では、新型コロナウイルス感染症の拡大抑止のため、さまざまな企業が営業を制限されています。営業の自由や財産権に対して、公権力が介入した事例です。しかも、東京都は特定の企業を狙い撃ちにするように、休業命令や酒類販売の制限命令を出したため、運営企業から訴えられています。
なんとなく「コロナだから仕方がないよね」と思う方もいるかも知れませんが、財産権の侵害に対して、行政の行為に正当性はあるのかが問われる、憲法上の訴訟となっているのです。今後の政府や地方自治体の行政行為の方向性に関わるため、とても重要な問題です。
納税者には「権利」もなくてはならない
そしてもうひとつ、第三十条の納税の義務も、国民の生活に直接関わる重要な部分です。
納税の義務は、学校の公民などの授業でも「国民の三大義務」のひとつとして習います。あとのふたつは、勤労の権利と義務(第二十七条)と、自身の子どもに普通教育を受けさせる義務(第二十六条二項)です。
勤労と教育は、権利と義務がセットになった条文です。ところが、納税は義務だけの条文となっています。そこで義務を定めるのであれば、納税者の権利も要求できなければおかしいのです。憲法改正の議論には、このことは必要なのではないかと思っています。
納税者の権利とは、納めた税金の使途を納税者が知ることです。税金が1円単位で何に使われているのか、国防などの機密に関わる部分は仕方がないにしても、それ以外の使途に関しては、すべて国民が閲覧できるようにするといったことも考えられます。
G7を構成する先進各国をはじめ、OECD加盟国の多くが「納税者権利憲章(Taxpayer Charter)」を制定しています。
納税者権利憲章は、税務署が徴税を行うときの手続きや、行政行為の適正さ、税務調査の際の納税者の権利、徴税をする側がやってはいけないことなどを定めたものです。
日本でも、すでに国会での質問主意書や資料で紹介されていますが、日本政府の見解は「ひとつにまとまった法律はないけれども、憲法や国税通則法といった法律で同等の権利はすでに保障されている」というものです。
しかし、それでは弱いものと考えます。
こうした納税者の権利を、憲法第三十条に入れようという議論をすることで、国家の背筋がビシッと通るようになります。日本経済の活性化という部分では、こうした法制議論は漢方薬のように効いてくるところです。
まず、納税者の権利がきちんと定められていること、その基礎である財産権の重要性が、国民と行政の双方で共通認識となっていることが重要です。
すると、そんなに簡単に国民の財産権を侵害してはいけない、もしも制限する必要のある場合には、手続きを守り政府が補償をしなければならない、ということが当たり前になり、国民と政府の関係が一本筋の通ったものになっていくのです。
歳入から歳出までの流れが、納税者の権利を軸に明瞭になり、税金を取るときも使うときも、役所がいい加減なことをできなくなるからです。これが健全に経済発展していくための土台になります。
特に問題もなく一生懸命に商売をしているのに「今日からお前の店、停止だ」などとは言われなくなりますし、税金を納めるときも複雑な税制の解釈をめぐって、逮捕だ追徴だのといった騒ぎも、もっと手続きの根拠がはっきりするようになります。