「命のビザ」を発行して6,000人のユダヤ人を救った杉原千畝。しかし、その2年前に、およそ2万人ものユダヤ人を大量虐殺(ホロコースト)から救出した人物がいました。さまざまな地で受け入れを断られたユダヤ難民たちを、彼はどのようにして救出したのでしょうか。産経新聞論説委員の岡部伸氏が、日独両国に忖度する満州国外交部を力強く説得した、もう一人の「東洋のシンドラー」について語ります。

※本記事は、岡部伸:著『至誠の日本インテリジェンス -世界が称賛した帝国陸軍の奇跡-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

忘れられたもう一人の「東洋のシンドラー」

スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』で知られるドイツ人実業家のシンドラーは、数多くのユダヤ人を大量虐殺(ホロコースト)から救ったことで有名です。

また、リトアニアの日本国総領事館に赴任していた杉原千畝が、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民を救出した逸話は、「東洋のシンドラー」として国内外に広く知られています。

▲杉原千畝 出典:ウィキメディア・コモンズ

その一方で、もう一人の「東洋のシンドラー」、樋口季一郞中将の史実はあまり知られていません。

杉原が救ったとされるユダヤ人は6,000人、シンドラーは約1,200人ですが、樋口中将は、これらを優に上回る2万人ものユダヤ人を、杉原が「命のビザ(通過査証)」を出す2年も前に救出していました。

そのため、樋口中将の名前と功績は、ユダヤ民族基金〔パレスチナの土地購入や国境の設定、植林、道路建設などイスラエルの国土開発全般にたずさわる組織〕がユダヤ民族に貢献した人物を讃える「ゴールデンブック」に記載され、ユダヤ人社会で記録に留められています。

▲樋口季一郎 出典:ウィキメディア・コモンズ

酷寒のソ連領で立ち往生していたユダヤ人難民

陸軍軍人であった樋口季一郎中将は、ユダヤ人難民をどのように救出したのでしょうか。

樋口中将がユダヤ人難民を救出したのは、彼が満州国ハルビン特務機関長だった1938年3月のことです。杉原千畝領事代理がリトアニアのカウナスで「命のビザ」を発給し、6,000人のユダヤ人を救ったのは、その2年後の1940年のことなので、樋口中将が日本人で最初にユダヤ人難民を救出したことになります。

1938年3月8日、欧州のドイツやソ連などで、ナチスのホロコーストの迫害から逃れるために、シベリア鉄道を使ってソ連を通過して避難してきたユダヤ人難民が、ソ連・満州国境のソ連領オトポール(現・ザバイカリスク)で立ち往生しているという一報が、樋口中将のもとに届けられました。

ドイツから脱出したユダヤ人難民たちは、当初はポーランドを目指しました。しかし、ポーランド政府はナチス・ドイツに配慮して、彼らを受け入れませんでした。

次にユダヤ人たちが向かったのがソ連でした。ハバロフスク(ロシア極東部の都市)西方のアムール川の沿岸に、独裁者スターリンがユダヤ人対策として設立したビロビジャンを州都とするユダヤ人自治区があることから、ソ連はシベリア開発の労働力としてユダヤ人の入国を許可しました。

ところが、同自治区は、もともと中国や日本による攻撃からの緩衝地域として、ユダヤ人を選別・追放するための拠点としてスターリンが設立した場所であり、流浪の民にとってそこは安住の地ではありませんでした。

また、もともと欧州の都市生活者だったユダヤ人難民たちは、シベリアでの農業には不向きでした。

ソ連は、ユダヤ人難民たちが労働者として不適当だと判明すると、彼らの受け入れを拒否するどころか、以前からユダヤ人自治区などで暮らしていた国内のユダヤ人も合わせて追放しました。

流浪の末に行き場を喪失したユダヤ人難民たちが、次に向かったのが満州国でした。彼らは日本滞在のビザを持っていなかったので、ウラジオストクから船で日本に渡ることができなかったのです。

▲「ヒグチルート」ユダヤ人難民はオトポールから満州里まで移動し、南満州鉄道に乗車。このルートは、1941(昭和16)年頃まで使われ、2 万人以上のユダヤ人難民を救ったとも言われている 図:『至誠の日本インテリジェンスより』