1937年に北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で日本軍と中国軍が衝突した「盧溝橋事件」は、歴史の教科書で目にしたこともあるでしょう。ここから始まる日中戦争の終結の糸口を探るため、蔣介石との直接和平工作というミッションを与えられたのが、諜報の神様と呼ばれた小野寺信(まこと)でした。産経新聞論説委員の岡部伸氏が、正規の外交ルートとは別に動いていた情報士官の“歴史”を教えてくれました。

※本記事は、岡部伸:著『至誠の日本インテリジェンス -世界が称賛した帝国陸軍の奇跡-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

蔣介石との直接交渉を命じられた小野寺信

1938年6月、ラトビアの首都リガから陸軍参謀本部ロシア課に戻った小野寺は、4カ月後の同年10月、息つく間もなく上海に派遣されました。日中戦争の終結の糸口を探るためでした。

その1年前の1937年7月7日の夜、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突する「盧溝橋事件」が発生し、事態の収束を図る日本軍が国民政府の首都南京を陥落させました。しかし、蔣介石は中央政府を漢口から重慶へ移し、戦線は華中、華南まで拡がります。

これを危惧したのは参謀本部ロシア課でした。米英が支援する中国との戦争が長引くと、北方の対ソ防衛作戦に支障を来す恐れがあったためです。

しかし、参謀本部の主流である支那課が進めたのが、国民党ナンバー2で和平派の汪精衛(おうせいえい/汪兆銘)を擁立して親日政権をつくるという工作でした。その中心人物になったのは、参謀本部謀略課課長だった影佐禎昭(かげささだあき)。第24代自由民主党総裁を務めた谷垣禎一の母方の祖父です。

ロシア課は「傀儡政権では中国国民の信頼は得られない。根本解決には、重慶(国民党政府)の蔣介石との直接和平しかない」と判断し、若手の俊英である小野寺を南京に置いた支那派遣軍司令部附参謀に任じて上海に派遣します。その際、小野寺に送った委任状には「国民政府要路者ト東亜再建ニ関シ協議スルノ権限ヲ委任ス」と書かれていました。

このように外交ルートとは別に、インテリジェンス・オフィサー(情報士官)がバックチャンネル(裏工作)で、政府間の意思調整を行うこともあります。外交関係のない敵対国や国交のない国にもアプローチできる情報士官は、影の交渉役として適しているためです。小野寺は、日中戦争で蔣介石との直接和平工作というミッションを与えられたのです。

▲「小野寺機関」のオフィスがあった上海アスターハウスホテル。「浦江飯店」として現代も当時の面影を残す 出典:hirobek / PIXTA

「アスターハウスホテル」(浦江飯店)は、列強の陰謀渦巻く「魔都」上海に建つ、東洋一といわれた伝説のクラシックホテルです。建物はビクトリア朝バロック様式で、南京条約締結から4年後の1846年、英国人のリチャードによって創業されました。参謀本部はこのホテルに居宅と事務所を構え、「小野寺機関」として活動させたのです。

そこに集まった約20人は、ソ連通の共産党転向者、ユダヤ問題専門家、重慶情報提供者、台湾人と多士多彩でした。東亜同文書院理事の肩書で近衛文麿首相の長男、文隆も参加しています。

また、近衛文隆らを介して、日中ハーフの美貌の女スパイ、鄭蘋如(ていひんじょ/テン・ピンルー)も翻訳係として働いていました。軍人はいません。小野寺機関は、人種・国籍・信条・思想を越えた「梁山泊(りょうざんぱく)」でした。

▲テン・ピンルー 出典:ウィキメディア・コモンズ

中国国民党高官の父と、日本人の母とのあいだに生まれた鄭蘋如は、中国人としての愛国意識に目覚め、重慶政府の特務機関「中統」(CC団)に属し、堪能な日本語と高度な知力、そして美貌を武器に、中国側スパイとして「魔都」を跋扈(ばっこ)しました。

プリンス近衛や親日派の大物、抗日テロ弾圧組織「ジェスフィールド76号」のトップである丁黙邨(ていもくそん)などと恋愛関係となり、プリンス近衛を本気で愛するようになり、蔣介石と近衛文麿間の連絡ルートをつくって、日中和平を図ろうとしました。

しかし、「中統」からの指令で丁黙邨を暗殺しようと試みましたが失敗し、わずか25歳で銃殺されました。

近衛文麿首相へ和平を直談判する

傀儡政権では立ち行かず、共産主義を浸透させるソ連のコミンテルンの野望を懸念していた小野寺は、中国国民党の組織部副部長の呉開先と、近衛文麿首相か板垣征四郎陸相を香港で面会させ、和平の突破口にする案を練りました。

和平は天皇陛下の鶴の一声で一気に持ち込まねば成功しない――そう考えた小野寺は、天皇に最も近い近衛文麿に直々に直接和平論を説明し、同意を得ようとしました。そして、文麿を説得するため、息子の文隆に親書を書かせたのです。

▲近衛文麿 イメージ:ウィキメディア・コモンズ

1938年12月、汪兆銘が重慶を脱出すると、小野寺は日本に帰国しました。文麿宛の親書を携え、東海道線で京都から帰京する文麿に車中で直談判しましたが、文麿は消極的でした。

さらに半年後の1939年5月、再び上京して板垣陸相、中島鉄蔵参謀次長と面会し、国民党が要求していた板垣陸相との会談の了解を得ました。

一方、影佐禎昭は東京で必死に巻き返し、同年6月6日、正式に「汪兆銘擁立工作」を進める「対支処理要綱」を閣議で決定します。これにより、蔣介石政権との直接交渉は寸前で取りやめとなったのです。影佐には陸軍上層部を説き伏せる政治力がありました。

1940年3月、南京に汪兆銘政権は誕生したものの、戦局打開も事態収拾も実現しませんでした。傀儡政権を目指す一方で、蔣介石との直接和平を模索する二股工作は、日本への不信感を増幅させ、日中戦争はさらに泥沼化しました。