ユダヤ人協会長から窮状の訴えが届く
ユダヤ人難民たちは、オトポール駅の周辺の原野にテントを張り、バラックを建てて極寒の窮乏生活を強いられるなかで、助けを求めていました。
オトポールは3月でも、朝晩は氷点下20度を下回る極寒の地です。吹雪のなかで食料が尽きて、飢餓と寒さのために、凍死する人も続出しました。難民の命は、非常に危険な状態にさらされていたのです。
ハルビン特務機関の機関長である樋口中将に、ユダヤ人難民たちの窮状を直接訴えたのが極東ユダヤ人協会の会長で、ハルビン市内で総合病院を経営する内科医のアブラハム・カウフマン博士でした。
1937年8月にハルビンに赴任した樋口中将が、同年12月にハルビンで開催された第一回極東ユダヤ人大会で、ユダヤ人を迫害するナチス・ドイツを非難するという思い切ったスピーチをして以来、樋口中将とカウフマン博士は良好な関係にありました。
医師としても評判が高く、ハルビンの日本人やロシア人のあいだでも著名な人物でした。ハルビンでユダヤ人関連の問題が起きたときには、日本側から意見を求められるなど、カウフマン博士は、ハルビンのユダヤ人社会と日本との貴重な接点だったのです。
ドイツと日本の両国に“忖度”していた満州国外交部
満州国外交部は、草木もなびくナチス・ドイツと日本に遠慮してか、オトポールで立ち往生しているユダヤ人難民に対する入国ビザを発給しませんでした。ユダヤ人難民は、ドイツ国籍であれば上海へのトランジットが可能でしたが、満州国外交部は日独に“忖度”して通過させなかったのです。
オトポール事件当時の日本は、全面戦争に突入していた日中戦争の解決の糸口を見出せず、和平交渉の仲介役を秘かにドイツに依頼し、前年(1937年)11月頃から、東京のドイツ大使館と外務省が折衝を進めていました。そのため、ドイツに期待をかけていた日本は、ドイツの国策に反する態度を簡単には明らかにすることはできませんでした。
ドイツの顔色をうかがう満州国外交部は、独立国としての自主性を失っていたので、救援に動く可能性は低いように思えました。
満州は、建国の理想として「五族協和」「八紘一宇」を掲げたではないか。遅々として進まぬ満州国外交部の決定を待っていては、難民は凍死してしまう。保身と怠慢で助けを求める多くの難民を見殺しにすれば、日本は世界に恥をさらし、忘恩の徒になるだろう――樋口中将は思い悩み、熟慮を重ねた末に、難民の受け入れを決断します。
そして、「ポーランドとソ連のように臨時の特別ビザを発給するよう、満州国外交部に働きかけを行う」と決意し、満州国外交部参事官でハルビン駐在だった下村信貞を電話で説得しました。ユダヤ人難民の入国を認めるように進言し、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに、即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給を行い、満州国の通過を認めさせたのです。