「A級戦犯」松岡洋右も難民救済に協力していた

次に樋口中将は、南満州鉄道株式会社(満鉄)の松岡洋右総裁に電話し、満州国や上海へ難民を輸送する特別列車を仕立てるよう要請しました。

▲松岡洋右 出典:国立国会図書館(ウィキメディア・コモンズ)
 

松岡はこれを二つ返事で了解し、難民救出のため、緊急に特別列車の満州国への入国と出動を命じました。満鉄は、対ソ戦に備えて常時数万の兵士を移動できる体制を整えていたのです。

「ハルビン~満州里」間は900キロもあり、1週間に客車と貨物車がそれぞれ1便ずつしか運行していませんでしたが、特別に満鉄が運賃無料で運行しました。

配車の交渉や本省への連絡は下村が行いました。そして満州国外交部は、無条件で難民たちに、とりあえず5日間の満州国滞在ビザを発給しました。

松岡洋右は、満州事変後の1932年にジュネーブで行われた国際連盟総会で、国連を脱退する演説を行い、1940年から近衛内閣の外相を務めて、日独伊三国同盟締結を主導した人物として知られています。

戦後には、連合国最高司令官総司令部(GHQ)による東京裁判でA級戦犯とされました。その「A級戦犯」も、樋口中将が要請したユダヤ人難民救出という“人道的支援”に協力していたのです。

▲国際連盟脱退翌日の東京朝日新聞(昭和8年2月25日朝刊) 出典:ウィキメディア・コモンズ

ちなみに、松岡は1939年10月、ヘブライ語学者の小辻節三を満鉄の顧問として招聘(しょうへい)しています。小辻は、のちに杉原千畝氏が発行する「命のビザ」で、日本に入国したユダヤ難民たちの滞在期間延長に尽力した人物です。

ベン・アミー・シロニー、河合一充著『日本とユダヤ その友好の歴史』(ミルトス/2007年)によると、かつてはファシズム的な論調を展開し、親ナチスと思われていた松岡に対して、小辻が見解を尋ねたところ、「私は(ナチ党の)反共の協定は支持するが、反ユダヤ主義には賛成しない。この二つはまったく異なる。この点を日本は明確にしなければいけない」と答えたそうです。

樋口中将は「世界で最も公正な人物の一人」

1938年3月12日の夕方、ハルビン駅に満州里からの特別列車が到着しました。列車からは、死の恐怖から解放され、疲れ切った難民たちが次々と降りて来ました。

▲大連・南満洲鉄道株式会社本社 出典:ウィキメディア・コモンズ

カウフマン博士はじめユダヤ人協会の幹部や医師が救護班に指示して、温かな飲み物や衣料を提供すると、多くの難民の涙がこぼれました。病人や凍傷患者は病院で手当てを受け、他の難民たちは全員、商工クラブや学校などに収容され、炊き出しを受けました。

その後、救出された難民の約8割は、上海を経由して米国などに渡りました。残りの人たちは開拓農民として満州国に残り、ハルビン周辺に入植することになりました。樋口中将は、安江大佐に依頼して、彼ら入植者のために土地や住居の斡旋など、最大限の支援を最後まで行いました。

この光景を目撃したカウフマン博士の息子、テオドル・カウフマンは、2006年にイスラエルで出版した『わが心に生きるハルビンのユダヤ人たち』で、「樋口将軍は、ハルビン・ユダヤ協会の嘆願を受け入れ、難民たちが満州国に入国できるように仲裁を行ってくれた。世界で最も公正な人物の一人であり、ユダヤ人にとって真の友人であったと考えている」と記しています。