2万人ものユダヤ難民を満州国に受け入れた樋口季一郎。「世界で最も公正な人物の一人」とまで称された樋口だったが、ユダヤ人を受け入れる決断には、陸軍内での地位を失うことへの覚悟が必要だった。産経新聞論説委員の岡部伸氏が、樋口本人や家族の記憶から、樋口がユダヤ難民救出を成功させるまでの勇敢な行動について語ります。
※本記事は、岡部伸:著『至誠の日本インテリジェンス -世界が称賛した帝国陸軍の奇跡-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
満州国の“内面指導”としての救援活動
1938年当時の満州国は本来、独立国であり、関東軍特務機関長の樋口季一郎中将には、ビザ発給決定への直接の権限はありませんでした。
ただし、当時の関東軍は、満州国の施政全般への一般的な指導権を持っていました。そのため、樋口中将は特務機関長として「満州国の内面指導」という形式で、ビザの発給に関与することができたのです。
「満州国は独立国家である。何も関東軍に気兼ねすることはない。ましてドイツに遠慮は無用である。一緒になってユダヤ人を排撃する必要は毛頭ない。ことは人道問題である。国境の寒さは厳しい。一日延ばせば難民の生命が重大問題となる。一刻も早く入国を決断していただきたい」(木内是壽著『ユダヤ難民を救った男 樋口季一郎・伝』アジア文化社/2014年)
満州国外交部参事官でハルビン駐在だった下村信貞は、東京帝国大学卒業の若手外交官で、樋口とは面識がありました。のちにソ連軍に大敗したノモンハン事件〔1939年にモンゴル・満州の国境付近で起こった日本軍とソ連軍の大規模な軍事衝突〕の収束に尽力し、終戦時には満州国外交部次長を務めた人物です(戦後シベリアに抑留されて客死)。
下村は「人道上の問題」と事態改善を求める樋口中将の要請を受け入れ、外交上の手続きを始めました。極東ユダヤ人協会会長のカウフマン博士にも、食料や衣服の手配など難民受け入れの準備を進めるように伝えました。
また、樋口中将と陸軍士官学校同期の盟友で、大連特務機関長だった安江仙弘(のりひろ)中佐も、ユダヤ人協会や南満州鉄道(満鉄)などと実務的な折衝を進めました。安江は、陸軍きってのユダヤ問題の専門家で、のちに大佐となります。
樋口親子が語る事件当時の記憶
当時の様子を樋口中将は、1954年に執筆した『北方情報業務に関する回想』で、次のように書いています。
「一万内外のユダヤ人がオトポール駅に逃れ来たり、入満を希望した。もちろん彼らはパスポートも所持していない。完全なる難民である。満州国は正道の外交権にもとづき、彼らの入満を許可しない。彼らは旅費と食料の窮しつつある。在ハルビン・ユダヤ人の代表者(カフマン博士)は、満州国外交代表某(下村信貞)にたいし、根気よく斡旋を依頼した。
彼は一夕私を訪ね来たり、いかにすべきやと問う。私は『ポーランドでもソ連でも、すくなくとも彼らの国内通過を認めたではないか。せめて蘇波(ソ連とポーランド)並みの態度をとるべきである。特に満州国の国是は五族協和である。五族とは万族ということである。よろしくそれを希望するものは満州に留まることを許容すべきである』と答えた。
彼曰く、『ところが目下、日独の関係はきわめて親密であり、防共に関する交渉も進められている。この際ドイツの追放せるものを厚遇するようなことは満州国として遅疑(ぐずぐずためらうこと)せざるをえない』と。
私いわく『満州国は日本と不可分の関係にあるが、やはり独立国だ。現在満州国代表がベルリンにいるではないか。日本とドイツは極度に親善だが、やはり日本はドイツの属国ではない。ドイツの悪ないし非の行動に同調すべきではない』と論じたところ、彼これを諒とし、満州国の決心として、彼らの通過に多大の便益を与えたものであった。これは私の内面指導のもっとも成功せるものであった」(カッコ内は筆者加筆)
ただし、樋口中将のユダヤ難民救済は、陸軍内での失脚を覚悟しての決断でもありました。
早坂隆著『大東亜戦争の事件簿』(扶桑社)によると、樋口の四女である智恵子は、当時まだ4歳でしたが、こんな記憶を有していたそうです。
「母が『お父様がクビになる。日本に帰ることになるかもしれない』などと口にしながら、荷物を整理していた姿を覚えています。今から思えば、その頃がユダヤ難民の事件が起きていた時だったのかもしれません(中略)。私が救出劇のことを知ったのは、戦後ずっと経ってからのことです」