「嘘つき」だからこそ三浦朱門と結婚した
私の父は東京・京橋の生まれの明治男で、美男であり、慶應義塾大学の理財科を出ており、折り目正しく、博打もやらず、女の問題も起こさず、勤める商社のカネを使い込むことなど、けっして考えもしない人だった。
しかし父は、人生の意外性や、その意外性を生む人間性というものを許さない人だった。母も私も、それがたまらなかったのである。
友達は私に「おたくのお父様って素敵ね」とよく言った。「何が?」と尋ねると、「美男で、慶應を出ていて……」などと言う。旧制中学校を出るくらいが、ごく普通の時代である。
そうした経験から、私は「人は見かけによらぬもの」ということを学んだ。
肩書や印象で人を判断してしまうのは、しかたがないことだ。しかし、真実はそうではない。その人の本当の姿は、なかなかわからない。
私の性格によることかもしれないが、自信を持ってしゃべる人と話すのは苦手だ。どうしても、「そんなことはないんじゃないの?」と思ってしまう。
私自身、「正しいことを言っているわけではない。本当は嘘かもしれない」ということを知りながら話をする。
私が結婚を決めたのは、三浦朱門が「僕は、嘘つきです」と言ったからである。こうしたことをちゃんと口にするような、精神のひだを持つ人なら結婚してもいいと思ったのである。
結婚することで“より人間を知る”ことができる
なんのために結婚するのか――。私は、結婚とは「人間を知ること」だと思う。もちろん夫婦に限らず、どんな関係においても「人間を知ること」はできる。しかし、たとえば職場の上司や部下といった人たちに、日常生活の心理状態などを根掘り葉掘り尋ねるわけにはいかない。
人間の日常的な行動の背景には、とても興味深い心の動きがある。しかし、それをよく知るためには、やはり夫婦になる以外にはないだろう。
そして「相手のことを知りたい」と思うことの背後には、「自分自身を知りたい」という隠された欲求がある。
私たちは、他者とこちらの個性がぶつかったときに、「自分」というものがよくわかるのだ。
私は夫を通して、「物書き」と呼ばれる人たちの世界を覗いたが、いろいろな発見があった。
私の親戚は、盆暮れにカステラなどの菓子折りを持ってご機嫌伺いに歩いた。内心は面倒だと思っていたが、私は結婚してからもその風習を守り、夫の仕事関係者にお菓子などを届けていた。
するとそのうち、「三浦のかみさんは、しょっちゅう何かを持ってくる」と陰口が広がった。亭主や自分の小説を褒めてもらいために一種のワイロとして盆暮れに品物を送ってくる、と受け取られたのである。
ショックだったか、結果としては良かった。それをきっかけに面倒な風習をやめることができたからだ。このうえない開放感を味わったのである。
今は季節に関係なく、自分がおいしいと思ったものを、食べていただきたい方にだけ、時期にかかわらずお送りすることにしている。