アメリカの本当の政策はなんなのだ?
ホー・チ・ミンにピストルを与えたOSS担当者は、のちに、こう述べています。「日本がフランス人レジスタンスを逮捕した1945年3月からの3ヶ月間が、ホー・チ・ミンにとって最も重要な転機となった。最初は数あるグループの1つのリーダーというだけだった。
アメリカ人には知られず、フランス人には妨害され、中国人には締め出され、武器も装備もなく、[母国ベトナムの]自分の組織からも400マイルも離れた場所にいた。……6月の終わりには、おおむねGBTのおかげで、圧倒的に強力な革命政党の揺るぎないリーダーになっていた」
ホー・チ・ミンが率いる工作員グループが非常に強力になったため、OSSとAGASの縄張り争いはさらに激化し、OSSへの反感を強めたGBTグループは、AGASの傘下に入りました。OSSの現場担当者も、一緒にAGASに行ってしまいました。
GBTグループをAGASに取られてしまったため、OSSは仏印での情報ネットワーク構築を図ります。そのために、OSSは、フランスのヴィシー政府派に接触しました。
ヴィシー政府は、フランスがドイツに降伏したあとに成立した親独政権で、ホー・チ・ミンら共産主義者や、ベトナムの独立を求める民族主義者とは敵対関係にありました。
OSSは、フランスの植民地を維持しようという意図は全くなく、ヴィシー政府派と組んだことは、仏印でのインテリジェンス工作の指揮権を巡る縄張り争いの単なる戦術にすぎませんでした。
しかし、OSSの行動は、アメリカがホー・チ・ミン率いる台頭しつつある共産革命に対抗して、フランスの植民地主義に味方するのか、という、政策的な大問題になってしまいます。仏印について、ワシントンが何も明確な指令を出していない状況のなかで、AGASとOSSが現場で競合し、縄張り争いをした挙げ句、インドシナの将来に重大な影響を与える政策問題につなげてしまったわけです。
フランスの植民地主義勢力と組んだOSSの行動は、当然ながらホー・チ・ミンの恨みと不信感を買いました。ホー・チ・ミンは、当初、自分がAGASに雇われているのだから、ワシントンは自分の側だと思っていましたが、やがてOSSの動きを知って失望し、OSSからAGASについて来た担当者に「アメリカの本当の政策はなんなのだ?」と慨嘆(がいたん)しました。
これが、「のちのアメリカの重荷を育んだのだ」とユ教授は批判しています。
※本記事は、山内智恵子:著、江崎道朗:監修『インテリジェンスで読む日中戦争 -The Second Sino-Japanese War from the Perspective of Intelligence-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。