日中戦争時、中国に対して思い通りの支援を届けることができなかったイギリスとアメリカ。それは、ソ連が英米に潜り込ませていたスパイの巧みな対中政策の操作が背景にある。各国の中国支援を操っていたソ連には、いったいどのような思惑があったのだろうか? インテリジェンスヒストリー(情報史学)に詳しい山内智恵子氏が、ユ教授の「日中戦争」論をもとに解説。
日本がソ連を攻撃できないようにしておく
マイルズ・マオチュン・ユ教授は、英米首脳が約束した対中支援を届けることができなかった原因の1つとして、「敵対勢力、つまりソ連や中国共産党の工作員が、対中支援を操ったこと」を挙げています。中国戦域に対する英米首脳の無関心のせいで、官僚や軍人や不満を抱く不適応者や、敵対勢力の工作員が対中支援を操ることが可能になったと指摘しています。
当然ですが、「すべてをソ連の情報機関が牛耳っていた」という単純な陰謀論ではありません。対中支援に関わっていた組織は、それぞれ独自の戦略を持っていました。
リーダーシップや適切な監督の欠如、組織間の縄張り意識や競争意識、トップ同士の感情的対立、上司に対する部下の不満など、対中支援を妨げた要因がいろいろあるうちの1つとして、ソ連や中国共産党の工作員の暗躍もあったということです。そして、その影響は決して小さくありませんでした。
アメリカ政府や軍の関係者のうち、ソ連や中共を利した者のなかには、自分が誰のために何をしているのかを十分に知りつつ、ソ連の情報機関員の指令に従っていた工作員と、共産党員や工作員ではないものの、なんらかの理由でソ連や中共にとって好都合な行動をとっていた者がいました。
中華民国空軍にスカウトされた退役米陸軍人のクレア・リー・シェンノートが、アメリカから航空機とパイロットの支援を受けようとロビイングをして、1941年4月にルーズヴェルト大統領の補佐官であるロークリン・カリーの計らいにより、フライング・タイガースが発足しましたが、実際にはカリーはソ連軍情報部の工作員であり、カリーの行動はソ連にとって好都合なものでした。
ソ連は日中戦争前半の数年間、中国に対して大きな支援を与えました。その目的は、日本と戦っている中国を勝たせることではありませんでした。ユ教授は、ヨシフ・スターリンの戦略は初めから、できるだけ多くの日本人を中国大陸に釘付けにすることにあり、蔣介石を勝たせるためではなかった、日本がソ連を攻撃できないように、日中戦争を長引かせることが目的だったと断言しています。
スターリンは、日本が決定的に勝てない程度に中国を支援するよう、綱渡りのように戦略のバランスをとってきました。ソ連が対日宣戦すればソ連は日本に攻撃されます。一方、抗日を支援せずに蔣介石が日本に降伏すれば、日本は中国大陸での戦争から解放され、中国の豊富な資源を使ってソ連を攻撃する恐れが出てきます。
いずれにしても、「スターリンの究極の目的は、中華民国の抗日戦勝利ではなく、日本がソ連を攻撃しないよう、中国大陸での軍事紛争を長引かせ、日本の攻撃力をすり減らすことだった」「スターリンの対中支援の動機は、地政学的な利害の計算であって、中国大陸の民族主義に対する感情的共感など微塵もなかった」というのが、ユ教授の分析です。
さて、1939年の夏以降、ドイツとソ連によるポーランド侵略によって、ヨーロッパで戦争が始まったために、ソ連の対中支援は停滞していました。スターリンとしては、ナチスドイツと組んでポーランドやフィンランドを侵略するなど、ヨーロッパに力を集中する必要がありました。だからこそ日本を中国に釘付けにして、日本がソ連を攻撃できないようにしておくことが必要でした。
ソ連の対中支援のなかで最も大きく、最も重要だったのが航空機です。ソ連が対中軍事支援から手を引くにあたって、他の誰かに中国への航空機支援をやってもらえれば好都合です。クレア・リー・シェンノートがワシントンで必死にロビイングをしていた1941年当時、航空機提供の能力が最も高かったのがアメリカです。
つまり、中国に対する航空機支援に動いたカリーは、ソ連が手を引いたところにアメリカを強力に押し込んだというわけです。
中華民国の戦時経済を破壊した米財務省工作員たち
1995年7月にアメリカ政府が公開したヴェノナ文書によって、戦間期から第二次世界大戦中にかけて、アメリカ政府内にルーズヴェルト政権の高官を含む多数のソ連工作員が浸透していたことが明らかになっています。
そのなかでも政府での地位が高く、ソ連にとって情報源としての価値が特に大きかったのは、財務次官補のハリー・デクスター・ホワイト、国務省高官のアルジャ―・ヒス、大統領補佐官のロークリン・カリーの3人でした[ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア:著、中西輝政:監訳『ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動』]。
このハリー・デクスター・ホワイトが、中国国民政府の戦時経済安定化を妨害したキーパーソンの一人です。
ホワイトは、戦時中の財務省で最も影響力のある財政ブレインであり、ヘンリー・モーゲンソー財務長官の懐刀(ふところがたな)でした。1934年に財務省に入省したホワイトは、1938年までソ連のスパイ活動を行ったあと、活動を2年間休止し、その後また再開しています。
スパイ活動を再開した1940年には、自分のスパイ活動を補佐させるために11人のソ連工作員を財務省に就職させ、シルバーマスターグループと呼ばれるスパイネットワークを形成しました。
シルバーマスターグループは、アメリカ陸軍航空隊やホワイトハウスなど、財務省以外の政府機関にも工作員を送り込み、当時のソ連情報機関・内務人民委員部(NKVD)によって運営されていました。シルバーマスターグループが、財務省をはじめとする、対中支援を直接扱う機関に深く浸透していたために、中国の戦時経済安定化のための努力が大きく妨害されたのです。
※本記事は、山内智恵子:著、江崎道朗:監修『インテリジェンスで読む日中戦争 -The Second Sino-Japanese War from the Perspective of Intelligence-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。