中国人の信頼を勝ち取った海軍中佐・マイルズ

一方マイルズは、中国人を見下す白人優越主義的な態度が、どれほど中国人の反発を買うかを理解していました。中国人は、すでに何年も日本と戦ってきた経験があるので、アメリカが中国人から学べることがたくさんあると確信していました。

中国の情報工作員は、中国での作戦にあたってはアメリカ人と同じくらい優秀である、この戦争を米中はともに戦っているのであり、相互の信頼と協力によって一つの軍事ユニットとしてまとまることができるし、場合によっては中国人がアメリカ人を指揮することもできる、というのがマイルズの考えでした。

マイルズは、米海軍の任務やSACOのために中国にやって来るアメリカ人兵士たちに、こうした方針に基づいたオリエンテーションを行いました。

マイルズの講義は、中国人の同僚たちを最大限に尊重するよう促し、「チャイナマン」(中国人を意味する軽蔑的表現)や「苦力(クーリー:中国やインドの下級労働者に対する外国人の呼称)」と呼んだり、アメリカの食べ物を「文明的」と言ったりしてはならない、ピジン英語(18~20世紀に中国の沿岸地域で使われていた、英語と中国語の混合言語。文法や語彙が極めて簡略化されていた)で話しかけてはならないなど、してよいことと、してはいけないことを具体的に教える、というようにきめ細かいものでした。講義のなかで、マイルズは次のように教えています。

諸君は暗黙のうちに同盟者を信頼しなければならないし、彼も諸君を信頼しなければならない。彼は諸君が配置される土地で生まれ育った。彼はその土地を、掌(たなごころ)を指すように知っている。村も、道も、路地も。彼は君を好きになり、尊敬し、信頼しなければならない。彼は、自分が生きたいと思うのと同じく君にも生きてほしいと思うのでなければならない。そうでなければ、彼は君が捕らえられるに任せ、服を着替えて、彼とそっくりに見える何百万人もの中国人に紛れ込んでしまうことができる。

戴笠がマイルズを信頼したのは、マイルズがほかの白人と違って、中国人を尊重するタイプだったことが大きいのですが、マイルズの考え方は当時としては革命的で、米軍や米政府から批判されました。

特に抵抗が大きかったのは、米中の人員を統合したSACOの司令官として、中国人である戴笠を置き、自分はその下の副官になったことです。統合参謀本部も、アメリカ大使も、陸軍も大反対しましたが、激論の末、1943年4月、ついに米中双方の軍と政府の代表者によるSACO協定署名を取り付けます。

もちろん、他国の司令官の指揮下に自国の兵士を組み込むのは避けるべきだ、ということは正論なのです。ただ、SACOの場合、マイルズと米海軍は、これは中国の戦争であり、中国で対日非正規戦を行う能力は、中国のほうがアメリカよりずっと高い。従って、米海軍は中国人の有能な将校と指揮権を共有することに、なんの問題もないと考えていました。

また、確かにSACOの組織のなかでは戴笠がトップで、マイルズが副官ですが、二人は親密なパートナーだったので階級的順番はほとんど問題にならず、完璧な協力関係を築くことができました。

▲アーリントン国立墓地のミルトン E. マイルズの墓 出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリックドメイン)

※本記事は、山内智恵子:著、江崎道朗:監修『インテリジェンスで読む日中戦争 -The Second Sino-Japanese War from the Perspective of Intelligence-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。