ロシア政府は10月29日、黒海経由でのウクライナ産穀物輸出に関し、今年7月に国連などと署名した海上輸送合意の履行を一方的に停止すると表明。これは、ウクライナがクリミア半島に大規模なドローン攻撃を仕掛けたことが理由と説明した。

それを受けて、EUのボレル上級代表は30日、ロシアに対し停止を撤回するように求めた。 ロシアの行動は、世界的な食料危機緩和への努力を損ないかねない。さらにアメリカのバイデン大統領も「飢餓を増やすなど全く言語道断だ」と強く非難した。

今年の2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻。両国以外も、局面が変わるごとに自国のスタンスを表明している。そもそも、ロシアのプーチン大統領が、この長期化する戦争を決めたトリガーはなんだったのか。そして、専門家が重要視するアメリカのバイデン大統領の出方とは? 国際情勢に詳しい渡部悦和元陸将、井上武元陸将、佐々木孝博元海将補の3人が徹底討論。

※本記事は渡部悦和:著、井上武:著、佐々木孝博:著ロシア・ウクライナ戦争と日本の防衛』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

バイデン大統領によって均衡が崩れた?

▲バイデン大統領によって均衡が崩れた? 写真:内閣官房内閣広報室 / Wikimedia Commons

渡部 プーチンがウクライナ侵攻を決断した理由のひとつとして、2021年1月にジョー・バイデンがアメリカ大統領に就任したことがあると、私は思っています。プーチンは、「弱いバイデン」としか思っていない。弱いバイデンだから、ロシアがウクライナに侵攻しても何も対応してこないと高を括っていたはずです。だから、ウクライナへの攻撃を開始してしまった。

佐々木 トリガーのひとつになったことは間違いないでしょう。力の信奉者であるプーチン大統領としては、弱いバイデン大統領は御しやすいと思ったはずです。自分の思いのままにやれるとプーチン大統領が考えたとしても無理はない。

もうひとつには、アメリカと中国の覇権争いがあります。そこに向けて、アメリカは政策をシフトしなければならないから、ロシアがやることにまで本気で口を挟んでくる余裕はないだろう、とも考えてもいたはずです。とくにバイデン大統領では、とてもロシアと中国の両方を相手にできないと判断したのかもしれません。

渡部 バイデンがロシアに対してほんとうに弱腰な対応しかできないかどうか、ロシアの情報機関も実態を把握しているはずです。ただ、最近のプーチンは完全に独裁者です。先ほど佐々木さんが言われたけれど、自分の気に食わない人間は、命を脅かすまで排除してしまう。そうすると、情報機関がアメリカの実態を正しく調べ上げていても、それをプーチンに報告できないわけです。事実を報告してプーチンのご機嫌を損ねれば、自分が粛正されてしまう。

プーチンを支えてきたのは、ロシアの治安・国防関係省庁の職員、その出身者である「シロヴィキ」と、プーチンの下で力を蓄えてきた新興財閥「オリガルヒ」です。そのシロヴィキとオリガルヒも、あまりの独裁ぶりに、プーチンにモノが言えなくなって、距離を置きはじめていると言われています。

オリガルヒがモノを言えなくなるのはいいんですが、シロヴィキがモノを言えないのでは正しい情報がプーチンに届かない。そうなると、プーチンの判断がおかしくなってくるのは当然のことです。

ロシアにエネルギー依存したメルケルの退陣

佐々木 そのネガティブな部分が、最近のプーチン政権には目立ちすぎる気がします。情報機関としてもバイアスのかかった報告を上げるしかなくなってきているので、情報機関としての役割を果たしていないことになります。

渡部 プーチンが独裁者であることで、今回のロシア・ウクライナ戦争は「プーチンひとりの戦争」になってしまっています。プーチンとプーチン以外のロシア人の意識に断絶があり、そのためにロシア軍の兵士にしても戦う準備ができていなかったし、戦う意識も低すぎることになってしまっている。これでは戦えるはずがありません。

▲長距離戦略爆撃機・tu-160に搭乗するプーチン(2005年) 写真:the Presidential Press Service / Wikimedia Commons

井上 少しドイツの話になりますが、今回のウクライナ侵攻により、ドイツの安全保障政策は大転換することになりました。ご存じのとおり、ドイツは軍事力ではなく、外交や経済を重視する政策をとってきました。

1990年10月3日の東西ドイツ統一も、ロシアがドイツに恩を売るかたちでした。統一以降も友好的かつ慎重な対ロシア政策を進め、ドイツ・ロシア関係は緊密な関係とはいかないまでも、脅威ではなく、重要な経済的パートナーでした。

2005年11月に、初の東ドイツ出身者として首相に就任したメルケルは、クリミア併合やウクライナ内戦を巡り、プーチンと激しく対立する一方で、エネルギーについては、ロシアに大きく依存する方向に舵を切りました。

渡部 ロシアは、ドイツにとって最大のエネルギー供給国です。ドイツの天然ガス輸入量のうち55%以上はロシアから供給されているし、輸入している石油の33%以上もロシアからです。そうしたロシア依存の体制をつくり、エネルギーで首根っこをロシアに押さえられるようにしてしまったのが、メルケルでした。そのメルケルが首相の座から退いたのは大きかったと思います。

佐々木 ロシアがウクライナに侵攻した当初、ドイツはロシアにあまり否定的な対応ができずにいました。やはりエネルギーでロシアに依存していることで、ためらいがあったのかもしれません。

井上 私がドイツに駐在していたのは1997年から2000年でしたが、その時期、新聞なども「ドイツの歴史で、こんなに平和で、脅威のない時代はない」といった論調でした。軍の兵力も東西統一のときが52万人から57万人くらいでしたが、私が駐在していた時期で37万人に減っていました。そして現在は、ざっと18万人くらいです。

これほどに兵力が激減したのは、平和だったからです。つまり、ロシアに対する警戒を緩めてもいい状況だった。メルケルが首相だった時代には、外交政策では対立するものの、エネルギーでは大きく依存する構造となり、ロシアがウクライナに侵攻しても、ドイツは身を切るような本格的な反対はできず、慎重な姿勢をとるという誤った判断をプーチンはした可能性はあると思います。

佐々木 なるほど、メルケル首相がとった外交政策と経済政策の矛盾した対ロシア政策が、プーチン大統領の判断に影響した可能性はあります。

井上 それにしても、国家の経済の命運を握る重要なエネルギーでロシア依存を強めたことは大きな問題でした。ロシアがこういう行動をとったことで、ドイツは自分の首を絞める結果になっているわけです。そのエネルギーのロシア依存を推し進めたのも、メルケルです。

渡部 これは大きなミスでした。

▲メルケルとプーチンの会談(2007年1月) 写真:Kremlin.ru / Wikimedia Commons