2004年、2013年、2014年と三度にわたって肘にメスを入れリハビリに苦しむ一方、不死鳥のように必ずケガから復帰し「最多勝」「カムバック賞」などタイトルも獲得した館山昌平氏。

絶頂と絶望を味わった名投手は、どうやって厳しい世界を17年間も生き抜いたのか。ヤクルトの先輩の石川雅規投手、大学の同級生で現読売ジャイアンツコーチの村田修一氏、の視点や証言も交えて、ヤクルトに入団した当時の様子を探っていく。

※本記事は、館山昌平​:著、長谷川晶一:執筆『自分を諦めない -191針の勲章-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

村田修一と同じ背番号《25》を自ら選択した

僕は東京ヤクルトスワローズからドラフト3位指名された。

2002(平成14)年のドラフト会議では、僕のほかにも村田修一が横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)から自由獲得枠で1巡目指名を受け、堤内健も同じく横浜の9巡目で入団を決めた。

また、キャッチャーの大野隆治は、福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)の5巡目でプロ入りを決めている。日本大学からは一度に4名ものプロ野球選手が誕生することになった。

このとき、村田との発案で「苦楽をともにし、公私ともにお世話になった同級生たちに、そろいのスーツをプレゼントしよう」と決め、津田沼パルコのポールスミスで全員分のスーツを購入した。このブランドを選んだのは僕だった。大学を卒業して社会への第一歩を踏み出す当時の自分にとって、「一番おしゃれで、社会人らしくカッコいいブランド」、それがポールスミスだったのだ。同級生およそ30名たちにできる、精いっぱいの感謝の思いの表れだった。

入団交渉の席でのことだった。

契約金、年俸について、僕には何も希望条件はなかったので、終始和やかなムードで交渉は行われていた。このときに背番号の提示も受けた。

若い番号から順に、いくつかの候補を提示されたのだが、そのなかには背番号《17》もあった。この番号はかつてのスワローズのエース、松岡弘さんや川崎憲次郎さんが背負った由緒正しい番号だった。

しかし、僕が選んだのは背番号《25》で、この番号は大学時代の村田が着けていた番号だった。彼はこの番号にとても愛着を持っていた。プロ入りの際に、村田のなかには「ドラフト1巡目指名であること」、そして「背番号《25》を着けること」を条件にしていたほど、この番号に対する強いこだわりを見せていた。

そして、いざ自分がプロの世界に進むことが決まったときに、僕にも背番号《25》が呈示されることとなり、自分もこの番号を背負いたくなったのだった。

入団交渉の途中、僕は村田に電話をかけた。背番号《25》を着けることについて、彼に確認を取るためだった。このとき、村田は言った。

「同じ番号を着けて、どちらが先に一軍デビューを果たせるか? そして、どちらが長く現役を続けられるか? お互いに頑張ろうぜ」

じっくりと話し合ったわけではなかった。やりとり自体は短時間だったけれど、この言葉はうれしかった。この瞬間から、お互いにセ・リーグのライバルチームに所属し、ピッチャーとして、バッターとしての対戦が始まることになったのだ。

プロの世界に進んでも、大学時代と同様に村田との良い関係は続く。

この入団交渉の際に、そんな実感がさらに強くなった。

ヤクルトとの入団交渉のときに背番号《25》が用意されていて、「この番号を着けたいんだ」と連絡が来ました。僕もこの番号にはこだわりがありましたけど、館山が《25》をつけるということに抵抗は何もなかったです。後に館山から、「ライバル意識があったから同じ番号を選んだ」と聞いたことがあります。「負けたくない」とか、「追いつけ追い越せ」とか、お互いに同じ番号を背負ったことで、そういう感情が芽生えたことは確かですね。[村田修一/談]