ウクライナのゼレンスキー大統領は先日、ロシア軍の攻撃によってウクライナのエネルギー関連施設の「3分の1以上が破壊された」と明らかにしました。つい先日も、ロシア軍がウクライナ西部の火力発電所を攻撃。インフラへの攻撃が続き、これから冬を迎えるにあたり、国民の生活が更に厳しくなる事態に懸念を示し、米欧諸国などに対して軍事支援に加えて、復興支援も呼びかけています。
強いリーダーシップを見せるゼレンスキー大統領。彼がもともとドラマで大統領を演じていたコメディー役者だったことはよく知られていますが、実際に彼の経歴を事細かに知る人は日本には少ないのではないでしょうか。40回近くウクライナを訪問し、ゼレンスキーとも会った経験のある、歴史学者の岡部芳彦氏が説明します。
※本記事は、岡部芳彦:著『本当のウクライナ -訪問35回以上、指導者たちと直接会ってわかったこと-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
初めてセルフィーをしたのがゼレンスキーとの2ショット
2019年9月、ウクライナ版ダボス会議とも称される、ヤルタ・ヨーロッパ戦略会議に出席したときのことです。
会議初日、主要なゲストが集合写真を撮るのが毎年の習わしです。僕の前列にはアナス・フォー・ラスムセン元NATO事務総長やヴィクトリア・ヌーランド元米国務次官補、イギリスの著名な歴史家ニーアル・ファーガソン、フランスの哲学者ベルナール=アンリ・レヴィなどが並びました。
さらに、その前には先日NATOへの加盟方針を発表したフィンランドのサウリ・ニーニスト、エストニアのケルスティ・カリユライドと現職の大統領2名が並び立ち、その横にアレクサンデル・クワシニエフスキ元ポーランド大統領やレオニード・クチマ元ウクライナ大統領など名だたる面々が続きます。さながらソ連崩壊後のヨーロッパの歴史絵巻を見ているようにも感じました。
全員が並び終えると、あまり背は高くないけれど、世界的な面々の中に入っても、明らかに他の人とは一風違う嫌みのないオーラを醸し出す男が現れました。その男が、ウクライナの大統領であるヴォロディーミル・ゼレンスキーだとわかるのには少し時間がかかりました。
集合写真を撮り終えて、思い切って後ろから肩を叩き、一緒に写真をと頼むと快く応じてくれました。でも、警護官の輪の中に入ってしまい、シャッターを切ってくれる人がいません。じつは、僕はこの日まで自撮りなるものをしたことがありませんでした。
ゼレンスキー大統領の右側に立ち、左手でシャッターを切ろうとしますが、自分の手だけが写ります。焦って大統領の後頭部から手をまわし左側から撮ろうとすると、今度は大統領の左側頭部だけ写ります。
その直後ですが、大統領に危害を加えようとしていると思ったのか、後ろの主任警護官が僕の腕をつかんでいました。人生初めての自撮りにモタモタしている僕の姿を見て彼は笑い「セルフィーは初めてなのか?」と聞きました。そうだと答えると、僕のカメラを取り上げ自撮りしてくれました。
それから約1カ月が経ち、天皇陛下の即位の礼で来日した彼との朝食会に招かれました。出迎える要人の列の最後に私を見つけた彼は「セルフィーマン!」と叫びました。
ビックリして握手をしながら「覚えていますか?」と聞くと、「もちろん! 自撮りはできるようになった?」と言いました。朝食会が終わると最後に、9月に撮った写真をプリントしたものに「ゼレンスキー大統領 日本へようこそ 岡部芳彦」と書いた写真をプレゼントしたところ、めちゃくちゃウケていました。あの写真はまだ大統領の手元にあるのでしょうか。
コメディー役者&脚本家&芸能プロダクション社長
ヴォロディーミル・ゼレンスキーは、1978年1月、ドニプロ州のクリヴィー・リーフで生まれました。キーウ国立経済大学クリヴィー・リーフ経済研究所で学ぶかたわら、学生劇団を結成、1997年、テレビのお笑いコンテストをきっかけに、チーム「クヴァルタル95」を立ち上げ、モスクワを拠点に活動します。つまり、ロシアの芸能界が彼の最初の活躍の場であり、芸能界を通じてその社会の裏側を垣間見たとも言えます。
2003年からは、そのチームを制作会社化し、2005年ウクライナの「インテル」チャンネルでコメディーショー「ヴェチェルニー・クヴァルタル」を開始、歴代ウクライナ大統領の批判など政治風刺のコントで人気を博します。2008年からラブコメを中心に映画にも出演し始め、2011年からロシアの歌手発掘番組で共同司会をし、同国でも人気を得ました。
2012年からウクライナのオリガルヒ(寡頭財閥)の一人イーホル・コロモイシキーが所有する「1+1」チャンネルに移籍して、2015年から自分が庶民的大統領を演じるドラマ・シリーズ『国民のしもべ』で高視聴率を獲得します。
そして2018年12月末、テレビで突然、大統領選挙への出馬を表明、翌年第一回投票において得票率約30%で首位、4月の決選投票で73%近い得票率で勝利しました。
実を言うと、僕はゼレンスキーが出馬すると聞いたとき「そんなバカな」と思いましたし、ウクライナの友人も同じような反応でした。では、なぜ彼が大統領になれたのかというと、最大の要因はポロシェンコ大統領だと思います。政治家としてのキャリアも長いポロシェンコはしがらみを断ち切れずに、EUが加盟条件として求める汚職対策は遅々として進みませんでした。
一方、反ロシア政策を強力に推し進め、長年の悲願であったウクライナ正教会の独立といった問題にも取り組みましたが、支持率には結びつきませんでした。そこに登場したのが、政治経験ゼロのゼレンスキーでした。ウクライナでは、既存勢力との結びつきがないという意味で、政治経験がないことが評価されることがあるのです。
大統領に就任するまでロシア語話者でしたが、ウクライナ憲法の規定に“大統領はウクライナ語が話せること”とあるため、猛特訓した就任演説でゼレンスキーは宣言します。
「我々全員が大統領です。自分に投票した73%だけでなく国民の100%が大統領で、我々全員の勝利です」
また、「クリミアもドンバスもウクライナの土地です。我々が失った最も重要なものは人です。ウクライナ人なのです」とも述べ、この地域の人々に届くよう呼びかけたのです。
ゼレンスキーはその後、ウクライナ発のロシア語放送局「ドム(家)」を開設するなど、ロシア系住民に配慮した政策を打ち出します。東部占領地域では、ロシアのプロパガンダ放送しか受信できなくなっている実情を改善するためでしたが、彼自身が東部出身者のロシア語話者だったからこその着想で、融和政策をとったのです。