生まれて初めて見た海で・・・

その日は突然やってきた。

いつものように日課を終え、シャワーを浴びる準備をしていると、最古参のキクチから招集がかかった。これからクルマに乗ってある場所まで行き、与えられた任務を遂行するのだという。

行くのは俺と、キクチ、シンジの三人。最年長で元ニートのタケシは「ドン臭いうえに体力不足」ということで今回は不参加とのこと。

事務所から100メートルほど離れた場所に停めてあった商用の白いワンボックスカーに乗せられ、俺たちは現地に向かった。

いったい俺たちはなにをさせられるのか、不安顔でヒソヒソ話していると、助手席に乗った見覚えのあるアフロヘアの男が、声を荒らげて言った。

「おめえら、ぺちゃくちゃしゃべってんじゃねえぞ。くっちゃべってる暇あるなら向こうに着くまでに、これに着替えとけ」

男が投げてよこしたのは、ソフトなゴムみたいな素材の黒いツナギのようなものだった。それに同じ素材の黒の目出し帽に黒いブーツ。全身黒ずくめってヤツだ。

着てみると、ちょっと息苦しいがサイズはぴったりだ。もともと俺はミリオタ的な要素も十分あったので、さっきまでの不安な気持ちも一気に吹き飛んだ。どこかの特殊部隊の狙撃兵になったような気がして、めちゃめちゃテンションが上がる。これで銃でも渡されたら最高だ。

自慢じゃないが、故郷では、オヤジが女と駆け落ちするときに置いていったライフルや拳銃をさんざんおもちゃにしていたので、扱いにはかなり自信がある。トウモロコシ畑という最高の射撃場があったことも幸いした。たぶん、そのへんのしょぼいヤクザあたりには負けないはずだ。

どっちみち俺たちは法に反する悪いことをしに行くのだ。ボーイスカウトでボランティア活動をしに行くわけじゃない。だったらもう割り切ってそれを楽しんでやろうという気持ちになっていた。特殊部隊のコスプレをしていたせいかどうかはわからないが、アメリカにいたときは引っ込み思案で臆病だった自分の新しい一面に、我ながら驚きを隠せなかった。しかしほかの二人はといえば、貝のように押し黙ったまま顔面蒼白(そうはく)になっている。

事務所を出てから3時間ほど走ったところで俺たちを乗せたクルマが停まった。真っ暗な車内に「ギギギ」とサイドブレーキを引く音だけが響いた。

「降りろ」

アフロに促されてクルマの外に出たが、車内同様真っ暗で空には月も出ていなかった。

遠くのほうに光がぽつぽつ見えて、それが目の前に広がる大きな湖だか貯水池の水面に反射してゆらゆらと揺れていた。

「おまえらには、いまからここでアワビの養殖カゴを引き上げてもらう」

思わず「アワビ?」と聞き返した俺に、キクチが「貝だよ……海の中の」と小声でささやいた。

もしかして、いま目の前にあるのは海なのか。だとしたら生まれて初めて見る海だった。

アフロがざっと仕事の手順を説明して、俺の前に水中用のゴーグルを差し出した。

「ノーノー、無理です。私、ダメ。泳げません」

「なに言ってんだ、おまえ」

「ほんとに泳ぐことできない」

「泳げなくても潜れるだろ」

「ノーノー絶対無理です。潜ったこともないです」

考えてもみてほしい。俺が生まれ育ったネブラスカは冒頭でも言ったように、アメリカ合衆国のど真ん中にある。つまりは太平洋からも大西洋からも1000キロ以上離れていて、海水浴に行きたくても飛行機じゃないと行けないという、全米でも海とはもっとも縁遠い場所なのだ。それどころか俺の通っていた学校にはプールすらなく、したがって水泳の授業もない。

そんなところで育った俺が、生まれて初めて目にする海、しかも深夜の真っ暗な海になど潜れるはずがあるだろうか――などと説明したところでアフロが理解してくれるわけもない。

「骨は拾ってやる」のひと言で、俺は真っ暗な海に突き落とされた。

かすかにニンニク臭がする生温かい空気が鼻から抜けていく嫌な感じで目を覚ますと、口をすぼめたキクチが俺の顔のすぐ前に迫っていた。

とっさにヤツの身体を押しのけようとして力を入れたら、口から塩水が吹き出した。

俺はキクチの人工呼吸で息を吹き返し目を覚ましたのだった。

キクチはいわば命の恩人であるが、同時にファーストキスの相手でもある。俺は白雪姫か、という話である。この秘密は墓場まで持っていこうと思っていたのだが、この際だから白状することにした。

これはあとでわかったことだが、アワビに限らず、いまや漁業とヤクザのシノギは切っても切れない密接な関係にある。詳しいことが知りたかったら、鈴木智彦が書いた力作『サカナとヤクザ ~暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う~』でも読んでくれ。

このアワビ密漁で俺が溺れ死にかけたという噂はあっという間に組全体に広まり、俺の評価はガタ落ちし、結果的に柳田のとっつぁんの顔に泥を塗ることとなった。当然、ゲンコツを食らいはしたが、とっつぁんは俺を見捨てなかった。

なんとか名誉を挽回するチャンスをと願っていたら、とっつぁんが文字どおり助け舟を出してくれた。

今度のシノギは溺れる心配のないスイカの窃盗(せっとう)だ。

その年は天候不順で収穫量が少なく、値段が高騰していたのでスイカが狙われたのだ。前回と同じように、部屋住みの連中と深夜現地に向かったが、前回と違ったのは「ドン臭い」元ニートのタケシが参加していたことと、「世界有数の穀倉地帯」育ちの俺が活躍したということで、結果から言うとミッションは一応成功した。

今回は事前にいろんな畑を回って防犯体制の手薄なところをあらかじめチェックしたうえで計画を遂行したが、なんせアワビとスイカではキロ単位の価格が100倍くらい違う。泥まみれになったうえに蚊に刺されまくり、半分ぎっくり腰になりながらトラック1台分「収穫」してもアガリはせいぜい20万円といったところで、めちゃくちゃ効率が悪い。

とはいえ、柳田のとっつぁんにしてみれば、指図だけしていればいいのだから、20万円とはいえ、なにも入ってこないよりはよっぽどマシだ。どこでそんな言葉を覚えたのか知らないが、これからは「アグリビジネスだ」などと言い出して、メロンだのマスカットだのにも手を広げていくと宣言した。

ところがいいことばかりは続かないというか、悪事はいつか必ず報いを受ける。

山梨県のとあるブドウ農園を狙った日のことだった。トラックの荷台に最後のカゴを積み込み、いざ出発となったのだが、クルマが動かない。タイヤにロック板を仕掛けられていることに気づいたときには、トラックの周りが黒い人影でぐるりと取り囲まれていた。自警団だった。

全員引きずり出され、その場でボコボコにタコ殴りされた。

俺の「落書無用」はアレとしても、全員、刺青入りだ。「おまえらヤクザか」と吊るし上げられたが、死んでも組の名前なんか言えない。シロート相手にボコられたことが上にバレたら、マジで殺されるからだ。

そのうちだんだん向こうも落ち着いてきて、やり過ぎたと思ったのか、今度顔見せたら裏の山に埋めると脅されはしたが、ブドウを人数分くれて解放された。めちゃくちゃ高い入場料を払ってブドウ狩りに行ったようなもんだった。東京への帰り道、クルマが揺れるたびに痛む背中に顔をしかめながら、もらったブドウを1粒口に放り込んだら、口の中が切れていたらしくめちゃくちゃ沁みた。

なんだか虚(むな)しくなってきて、俺はヤクザの道を諦めることも考え始めていた。

その一件があって以来、柳田のとっつぁんはアグリビジネスを言い出さなくなったが、相変わらず無茶な要求をしてきた。

いまでも印象に残っているのが拳銃密売だ。

同じ拳銃でも、「アメリカ軍御用達(ごようたし)で直輸入」と言っておくと高く売れるということで、アメリカ兵に扮して取引の現場に立ち会うというのが俺に与えられた役割だった。上野のアメ横にあるナントカ商店というミリタリーショップで調達してきたアメリカ軍の軍服を着て、言われるがままに取引の現場に連れて行かれ、もっともらしい顔をして近くにいればいいということだった。

しかし、よく考えたらどこの世界にわざわざ軍服を着て銃の密売の現場に現れるバカがいるのかという話なのだが、柳田のとっつぁんはそれでいいと言う。で、言われるとおりに、第二次大戦時なのかベトナム戦争時なのか現代なのか、時代もよくわからない軍服に身を包み、シリアスな表情で取引相手にうなずいただけだったが、うまく商売は成立したらしい。

とっつぁんが持ち込んできたシノギでもう一つ記憶に残っているのが、アダルトビデオ出演だった。

役どころの説明と演技指導はあっちがやるので、とにかく現場に行けと言われた。正直言って心は激しく揺れ動いたが、結局やることにした。カネをもらえるうえに、美人AV女優相手に童貞を捨てられるなんてまずないチャンスだ。

指定された時間に、世田谷区の住宅街にあるハウススタジオに行き、監督と会った。俺の役は、日本人の女5人を一列に並べて次から次に犯しまくる「アメリカの種馬男」という設定だった。どうも、俺がアメリカではヤリチン男だったという、あの居酒屋での会話がそのまま伝わっていたらしい。

話を聞いた瞬間、絶対ムリだと思った。たとえ体力がもったとしても、俺にはテクニックというものが皆無だ。プロが見れば、俺が童貞もしくは経験不足であることは一発でバレる。それは火を見るよりあきらかだ。

そこで俺は、黙っていて申し訳なかったが、じつは自分はアメリカで流行中の謎の性病にかかっているととっさに嘘をついて童貞バレの危機を脱したわけだが、それからしばらくの間、誰も俺に近寄ろうとしなくなった。まあ、それはいいとして、アワビ事件のとき俺にキス……いや人工呼吸をしたキクチをなだめるのには苦労した。