ついにあこがれのヒロシの下で働く
ある日のことだ。犬の散歩を済ませ、事務所の近所に住む組長の娘の家で、子どもの英語の宿題を見てやっていると、ヒロシから電話がかかってきた。そこでの用事が済んだら、こないだの名曲喫茶に来い。それだけ言って電話は切れた。
俺が席に着くなり、ヒロシが開口一番言った。
「ここは安全だと思うが、念のため一応英語で話そう」
家庭教師のときに使う「ディス・イズ・ア・ペン」「アイ・アム・ア・ボーイ」など以外では久しぶりの英語だ。異論はなかった。
「柳田のオジキからいろいろ聞いてる。おまえも大変だったとは思うが……」
「いろいろドジを踏んでミスター・ヤナギダには迷惑ばかりかけてしまい、自分としても残念です」
「オジキのことを悪く言うわけじゃないが、オジキのやり方ははっきり言ってもう古い。昔のやり方じゃ、もうヤクザはやっていけない。それはおまえもわかるだろ」
「……わかります」
じつは、もうヤクザをやめようかと思っていたところなのだと言おうとしたが、とりあえずその言葉を飲み込んで俺はヒロシの次の言葉を待った。
「それでこないだオヤジ(組長)とも話したんだが、どうだ、トミー。俺の下でやってみる気はないか」
「組長はなんて……」
「この際だからハッキリ言うが、組長はおまえのことをハズレというのか、相当ポンコツだと思ってるらしい」
言われなくてもそれはヒシヒシと感じていた。もはや、俺は轟雷組の人間というより、組長の家族の小間使いとか、しもべという扱いだ。
「オヤジは俺に一任すると言ってくれた」
「オーマイゴッド! ほんとですか」
希望の光が見えた。最初から俺は、このヒロシという男の下で働きたかったのだ。
「俺は、使いようによっては、おまえは光る男だと思ってる」
「ありがとうございます!」
「……トミー、おまえはコンピュータに詳しいと言ってたよな」
「はい」
「そこで相談なんだが……」
そう言うとヒロシはテーブルのほうに身を乗り出し、一段声を落とした。
「ヤクザのビジネスで、オシボリ屋ってのがあることは知ってるよな? 飲食店や会社から、その名のとおりのオシボリはもちろん、観葉植物や絵をレンタルするって名目でカネを徴収するシステムだ」
「ミスター・ヤナギダから聞いたことがあります」
「あのシステムのいいところは定期的にカネが入ってくることだが、問題は実際に動かなくちゃならないってことだ。そこにコストがかかる。そこでだ、俺が考えてるのは、いま流行りの企業や店舗のホームページの制作代行をやって、毎月そのメンテナンスという名目でカネを集めるってシステムを作ることだ。それならパソコン1台あれば済むだろ。トラックもいらねえし、人を雇う必要もない。なんせ合法的なビジネスだから警察も文句のつけようがない。細かいことは別の人間にやらせるからおまえにはそのシステムを作ってもらいたい」
素晴らしいアイデアだと思った。わかりましたとうなずくと話はすぐ次に移った。
「必要なのはサーバーだが、ホームページ専用にしとくのはもったいないから、サーバーもレンタルする。その管理も任せたい。そして、これが今度のビジネスの目玉なんだが、あるデータベースを作ろうと思ってる」
「データ……ベース……?」
「全国の警察の裏情報を集めたデータベースを作るんだ。マル暴担当の捜査のやり方の特徴から、人事異動、ガサ入れ情報、刑事一人一人の家族構成、借金、愛人の有無、性癖、そういうのを全部一つにまとめたデータベースを作って、全国の同業者にアクセス権を売るんだよ。情報提供してくれたところにはもちろん一定額の報酬は支払う。そのシステムも作ってほしい」
俺は思わず小さく口笛を吹いていた。アワビの密漁やスイカ泥棒とはなにからなにまで別次元の話だ。
「もちろんやらせていただきます! それにしても、凄い計画ですね……」
ヒロシは「だろ」と自信たっぷりに笑って言った。
「いずれは同業者間の交流を目的とする、ヤクザに特化したSNSも立ち上げるつもりだ。名前はもう考えてある」
「?…………」
「8、9、3……ハチキュウサンだ。シンプルでいい名前だろ」
結果から言うと、このヤクザ専用SNSはローンチには至らなかったが、ここだけの話、その後、このアイデアをどこかで耳にしたホリエモンが、新感覚SNSと称して収監されていたときの囚人番号を冠した『755』(ナナゴーゴー)を立ち上げたと、俺は睨んでいる。
理想のカノジョあらわる!
柳田のとっつぁんからヒロシに鞍替(くらが)えした俺は、文字どおり水を得た魚のように仕事に精を出した。
成果も徐々にではあるが右肩上がりで確実に上昇、ヒロシにとって俺はなくてはならない懐刀(ふところがたな)の一人となっていた。
そんなある日のことだ。ヒロシが俺をメシに誘ってくれた。地元の新宿で焼肉をごちそうになり、その後、ヒロシが経営する店に連れて行かれた。
お城の扉みたいな重厚なドアを開けると、その向こうはまさに映画で見る豪華絢爛(けんらん)な世界だった。ボーイに案内されフロアに出ると、思い思いに着飾った女たちがいっせいに俺たちに熱い視線を投げて寄こす。
ヤクザ映画にハマった頃から夢にまで見てきた空間の中に俺はいま立っている。そう思った瞬間、頭のてっぺんからつま先まで電気が走った。
そこがオーナーのヒロシの特等席なのだろう、いちばん奥の席に通されるとすぐに酒がセットされ、同時に数名のホステスが俺たちの両脇になだれこむようにして座った。いずれもとびきりの美人だ。柳田のとっつぁんと行った例の居酒屋で会った女たちが言っていたことの意味が理解できた。
慣れた感じで、おざなりに女たちの相手をしていたヒロシが、あらためて俺に目配(めくば)せすると女たちに言った。
「こいつと話があるから、おまえらちょっと席外せ」
みんなおとなしく席を立っていくなか、一人だけ立とうとしなかったホステス―リオ―がいた。
「えー、私、トミーさんのそばにいたーい」
身体をくねらせイヤイヤをするリオをヒロシが「てめえ、ぶっ飛ばすぞ。あとでまた呼んでやるから、あっち行ってろ」と追い払うと、俺に英語で話し始めた。
「ここだけの話と思って聞いてくれ……じつは、組をやめようと思ってる」
「本気ですか」
「やめるっつっても、オヤジにはきちんと筋通して独立するってことだけどな」
「ということは、自分で組を持つってことですね」
「そういうことだ……。おまえ俺についてくるか」
考えるまでもなく答えはイエスだ。そもそも俺はまだ組長から盃ももらってないから、厳密に言えばフリーの身だ。
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げた俺にグラスを持たせ、ヒロシが「乾杯だ」と自分のグラスを掲げた。
しばらくしてホステスたちが席に戻ってきた。
さっきのホステスにヒロシが苦笑いを浮かべて聞いた。
「おまえ、新入りだよな。名前なんだっけ?」
「えー、覚えていただけてないんですかァ……リオです」冗談めかして女が答えた。
「おまえ、そんなにトミーのことが気に入ったのか」
冷やかすように言ったヒロシに、リオがなにか意味深な口調で、
「だって……ねえ……?」
と、俺のほうに流し目を送ってきた。
意味がわからず、「え?」と聞き返した俺にリオが言った。
「アメリカにいるときは、凄い数の金髪相手にブイブイ言わせてたんでしょ」
「トミー、おまえ、そうなの? おまえヤリチンだったの?」
ヒロシのひと言で、その場がワッと湧いた。
「ていうか、なんでトミーがアメリカでヤリチンだってこと知ってんだよ」
「たまたま私の友だちから、ヒロシさんとこのトミーっていうアメリカ人の男の子がどうのこうの、って話してるの聞いてたから」
どうやら、このリオってホステスは例のモツ鍋三人組の女たちと知り合いらしい。あのとき、ほんとに変なことをしなくてよかったと俺はホッと胸をなで下ろした。
「で、リオ……はこのヤリチン野郎に興味があるんだ?」
「ヒロシさん、ちょっとカンベンしてくださいよ。マジで俺、そんな遊び人じゃないですから……」
俺は必死になって否定していた(まあ、正直、ヤリチンと言われて嬉しかったのも事実だが)。なぜそんなに必死になったかというと、そのリオという女が俺にとって「どストライク」だったからだ。
小柄なので若く見えるが、じつは俺より6つほど年上だったとはいえ、密かにミセス・スズキに憧れていた年上好きの俺としてはそれも魅力の一つだった。
そんなこんなで、俺たちは店の外でも会うようになっていった。いわゆる「店外デート」みたいな営業活動の一環的なものではなく、ごくごくプライベートな感じでだ。
つい、半年前まではアメリカの片田舎で童貞をこじらせていたコンピュータオタクが、世界有数の大都市トーキョーで憧れのヤクザとなり、とびきり美人のカノジョを持つまでになったのだ。「もう、女だったら誰でもいい」状態のところに、理想的なカノジョが現れたのだ。
クルマにたとえるなら、ボロだろうが古かろうがタイヤが4つ付いていて走りさえすればいいと思っていたら、フェラーリが来ました、みたいな感じだ。これで有頂天になるなというほうが無理だろう。
俺はリオに夢中になった。彼女がニューヨーク育ちの帰国子女で英語が完璧だったこともあり、彼女は俺にどんなことでも包み隠さず話したし、俺もまたそうした。しかし、それが彼女の仕掛けた罠だったということに気づくには、その時の俺はあまりにも未熟すぎた。結論を先に言うと、彼女は潜入捜査を専門とする警視庁の特別捜査官だったのだ。