リオとの別れ、そして・・・

異変に気づいたのは、ヒロシが裏で経営している会社に税務調査が入ったことがきっかけだった。

俺がコンピュータだけでなく、数字にも強いということは前にも話したが、その能力を買われ、俺はヒロシの会社の裏帳簿の管理も任されていた。表向きは小さな会社だが、その裏で実際に動かしているカネはケタ外れにデカい。そのことをあるとき寝物語でリオに話したことがあった。

税務調査が入ったのはその直後だった。しかも、その調査はただの税務調査ではなかった。会社にやってきた税務署の職員と名乗る男たちが、帳簿そのものよりも税金とは直接関係のないものばかりに興味を示すことに俺は激しい不信感を覚え、やがてその不信感はリオ本人にも向かっていった。

そこであるとき、俺はありもしないヒロシの犯罪計画をでっち上げ、それとなくリオに話してその反応を見ることにした。俺のカンが外れていることを心の底から祈ったが、残念ながらそうはならなかった。

リオは見事なまでに俺がまいたその餌に食いついた。彼女に告げた場所に、変装した刑事が何日も前から張り込んでいることを確認した俺は、めちゃめちゃ動揺した。なによりも、俺は彼女を愛していたし、彼女の俺に対する愛が偽りのものだったとはどうしても思えなかったし、思いたくなかったからだ。

このままなにもなかったように、素知らぬ顔でリオと刹那的な恋愛を楽しんでいればいいじゃないかという思いもあったが、やはりいちばんの恩人であるヒロシを裏切るわけにはいかないという結論に達した。

そこで俺はある日、意を決してヒロシにすべてを話すことにした。高倉健が歌う世界を地でいったわけだ。

俺の話を聞き終えた途端、ヒロシが声を立てて笑い出した。

「トミー、トミー、トミー……まさかおまえ、そんなことを俺が知らないとでも思ってたのか」

「知ってたんですか!?」

「逆に聞くが、おまえはいつ気づいた。例のデータベースから警察のネットワークに入っていけば、おまえならすぐにあの女の正体を掴めたはずだ。おかしいと思ったときになんですぐにそれをしなかった?」

図星を突かれて俺は言葉に詰まった。じつを言うと、俺はヒロシが言ったように、警察のコンピュータシステムをハッキングしていればもっと早くにリオの身元を洗うことができたのだ。

「どうした……答えられないのか」

「…………」

「なら、俺が答えてやろう。おまえはあの女にベタ惚れだった。だから本当のことを知るのが怖かったんだろ。違うか」

そこまで読まれてしまっていては、もうお手上げだ。俺は黙って頭を下げるしかなかった。

「……申し訳ありません」

「謝ることはねえよ。第一、少しばかり時間がかかったが、おまえは正直に本当のことを話した。その点は評価するよ」

おそらくヒロシは、わざと気がついていないフリをして俺を泳がせて、俺がどんな人間なのか見極めようとしていたのだ。

ヒロシがなにか思い出したようにフフンと鼻先で笑って言った。

「最初におまえを店に連れてったとき、妙にあの女がおまえのこと持ち上げてたろ。アメリカでモテまくってたとかなんとか……。あれ聞いたとき、俺はピンときたんだ」

「え?……」

「だってよ、そうだろ。どっからどう見ても童貞にしか見えないおまえが、アメリカでヤリチンだったなんて誰が信じるよ。それをあの女は……。おまえが、謎の性病にかかっているっていう例の噂だって耳に入ってたはずなのに、おまえにヤラせたんだろ。どう考えてもおかしいじゃねえか」

俺が童貞だったことはバレバレだったのだ。俺は顔が耳まで真っ赤になるのが自分でもわかった。

ヒロシが続けた。

「そりゃ、いままでオンナに指1本触れたことがなかったヤツがあんな上玉に筆おろしされたんじゃ、そりゃ、惚れるなっつうほうが無理だわなあ」

リオと初めて結ばれた夜、あの最中にリオが漏らした「こんなの初めて」という言葉は、いったいどういう意味だったのだろうか……と俺はその場で考え込んでしまった。だが、いま問題になっているのはそういうことじゃない。

「ヒロシさん、俺、どうすれば……」

「おまえに罪はない。その年まで童貞だったことを除けばな……ハハハ、冗談だよ。いままでどおり、俺の下で働いてくれ」

ヒロシの顔には笑みが浮かんでいたが、その目は笑っていなかった。

「ヒロシさん……一つ聞いてもいいですか」

「なんだ」

「バカなヤツだと思われるかもしれませんが……」

「リオのことか」

「……ええ」

「ったく、おまえってヤツは……まだ惚れてんのか」

もう会うつもりも連絡する気もないが、まがりなりにも生まれて初めて本気で好きになった女だ。ヒロシが彼女をどうするつもりでいるのかは気になった。

「警官に手ェ出したらただじゃ済まないことは重々承知さ。俺もわざわざそんな危ねえ橋は渡らねえよ。店のほうからはいずれフェードアウトしてもらうが、しばらくこのまま泳がしとくつもりだ。おまえもせいぜいいまのうちにヤルだけヤって楽しんどけ。そのへんの加減はわかるよな……」

翌日からも、俺は以前と変わりなくヒロシの会社で仕事を続けた。

知らない人間が見たら、髪型がパンチというだけで、普通のIT企業のシステムエンジニアにしか見えなかっただろう。やってることもプログラミングの中身が違法というだけで、1日じゅうパソコンに向かっていることに変わりはない。つまり、まったくヤクザらしいことはしていなかったのだ。それでもリオと付き合っていたときは、毎日が輝いていた。

が、そのリオともう会えないとなると、途端に世界が色あせて見えた。こんなことなら、アメリカでおとなしくプログラムを書いてればよかったという思いが1日に何度も頭をよぎるようになっていた。

そんなある日、衝撃的なニュースが飛び込んできた。

深夜、四ツ谷駅前の横断歩道を渡っていたリオが、信号無視で突っ込んできた無免許の東南アジア系の男が運転するクルマにはねられて即死したのだ。

それがたんなる不幸なアクシデントだったのか、あるいはそうではなかったのか……そんなことはもうどうでもよくなっていた。思いがけない突然のリオの死で、俺の心に残っていた最後の支えがポキリと音を立てて折れたのだ。

翌日、俺は西新宿にあるヒロシの個人事務所を訪ねた。ヤクザをやめる旨を伝えるためだった。ヒロシの大きなマホガニーのデスクの上に、俺はジャケットのポケットから取り出した白いハンカチの包みを置いた。

中には今朝、俺が自分で切り落とした左小指の先が入っている。

少し血の滲(にじ)んだハンカチを一瞥(いちべつ)してヒロシが聞いた。

「なんだよ、それ」

「指です」

「バーカ、そんなことわかってるよ。どういう意味かって聞いてんだよ」

「ヤクザ、やめようと……」

「おまえなあ」ヒロシが一つ深々とため息をついた。

「やめてえなら勝手にやめればいいだろ……。いまどきエンコ詰めやらしたなんてことになったら警察に組つぶされちまうんだぞ!」

「すみません」

「いいからそれもって早く病院行って来い。いまならまだつながるかもしれねえから」

「でも……」

「おめえはだいたいよお、ヤクザ映画の見過ぎだっつうの。菅原文太にでもなったつもりか……」

「なりたかったですよ、俺も菅原文太みたいに……」

「だったら考え直せよ」

「もう決めたことですから」

「ったく、臭いセリフ吐きやがって」

ヒロシは真意を探るようにしばらく俺を見ていたが「ふーっ」と一つ大きなため息をついて言った。

「人が下手(したて)に出てりゃいい気になりやがって……」

ヒロシはゾッとするような冷たい目つきになって俺を追い払うような手付きをした。

「もういい。消えろ」

俺がどれだけの覚悟と決意で自分の小指を切り落としたかなんて、まったく気にかけてもいないヒロシのその態度に、俺はかなり失望した。これでなんの未練もなく、この男のもとから離れられる。そのときはそう思った。

「短い間でしたが、お世話になりました」

ハンカチの包みを掴み、一礼して部屋を出ていこうとした俺にヒロシが言った。

「わかってるだろうと思うけど、いままでおまえがここで見聞きしたことは一切口外無用だからな」

「わかってます。俺も……」

「あのオンナみたいにはなりたくないって言いたいのか」

「…………」

「一つ教えといてやる。そういうのをな、日本語で『ゲスの勘ぐり』って言うんだよ。そう思いたければ勝手に思えばいいさ。その代わり、俺の前に二度とその薄汚え面(つら)さらすんじゃねえぞ」

俺は無言でうなずくと、ヒロシの突き刺さるような視線を背中に感じながら、後ろ手にドアを閉めて事務所をあとにした。

普通、映画なんかだとこういうとき建物の外に出た主人公は、背中を丸めてタバコに火をつけてから感慨深げに空を見上げたりするんだろうが、俺の場合は違った。スタコラサッサと、ある場所を目指した。そう、病院だ。せっかく戻ってきた俺の大事な身体の一部なので、元にあった場所に戻さないともったいないと思ったのだ。