ヤクザのガラパゴス島・北九州へ
西武新宿駅の近くにある大きな病院だったが、医者はしなびた指の切れ端をひと目見るなりもう手遅れだと言った。そのまま切り口の骨の角を丸く削ってから皮膚を縫い合わせるという手術を受け、治療費の支払いのために窓口に向かったら、待合室の椅子に心細そうな面持ちで座る柳田のとっつぁんの姿があった。
30分後、俺たちは病院のそばにある小さな公園のベンチで肩を並べていた。
もちろん細かいことまでは話さなかったが、包帯でぐるぐる巻にされた俺の左手を見ておおよそのことは察したらしい。
「そうか」とうなずいて、しばらく押し黙っていた柳田のとっつぁんがボソリと言った。
「そりゃあ、ヤクザなんかにならねえで済むなら、ならねえに越したことはねえ」
「…………」
とっつぁんは何度か咳き込んだあと、さっきの病院で処方された薬を袋から出し、ペットボトルのお茶で飲み下した。
「ここんとこ持病の喘息が悪くなってきててな……」
「大丈夫ですか?」
「おめえのほうこそ大丈夫なのか」
言われてみれば、麻酔が切れて小指の先が心臓の鼓動に合わせズキズキと痛みだしていた。
「少し痛いですが、大丈夫です」
「指詰めにしたって、もう、仁義がどうとか、義理だ人情だって言ってられる時代じゃねえからなあ……」
「おじき……おじきは、どうしていまの職業を選んだんですか」
「おれがなんでヤクザになったかってか……」
「はい」
「いまおめえ、『職業』って言ったがなあ、ヤクザってのは……職業じゃねえんだ」
とっつぁんはそう言うと、俺を真っ直ぐに見据えた。
「生き方だ」
――ヤクザは生き方。
とっつぁんのその言葉は俺の胸にズシリと響いた。
「俺たちが若い頃は、よく言われたもんだよ……『金で動かず道理で引かず、タマ(命)の取り合いになっても男を曲げんな』ってな」
そうだ……何度でも言うが、俺がヤクザに憧れたのも、まさにそういう「ヤクザの美学」みたいなものに惚れたからだった。だが、実際に日本に来てみて、それはもはや幻想であることを思い知った。
「つまりな、ヤクザってのはいつまでも大人になれねえ、永遠のガキなんだよ」
とっつぁんは一人語りで言葉を続けた。
「ヤクザ社会ってのは、お山の大将の集まりみたいなもんでよ、どっちが腕っぷしが強いかとか、どっちがいいもん持ってるかとか、どっちが上でどっちが下かとか、そんなことで意地の張り合いしてよ。結局は世の中の役には立ってねえ、世間のハミ出し者なんだよ。そのハミ出し者が気の合ったもん同士家族みたいに肩寄せ合って生きていく……俺はそういうとこが好きだったんだ。俺もすっかりヤキが回っちまって、おめえにはみっともねえところしか見せれなかったけどよ、ヤクザにはヤクザにしかできねえ生き方ってもんがあるんだよ」
「どんな……生き方ですか」
「遊びをせんとや生まれけむ……」
「?…………」
「いまヤクザってのは永遠のガキだって言ったよな。ガキが遊んでるときというのはほんとに脇目もふらずに夢中で遊ぶだろ。考えてみりゃよ、人生なんてのは生まれてから死ぬまでの暇つぶしだ。どうせだったら、ガキが遊ぶときみたいに夢中になって面白おかしく生きてえじゃねえか。一度きりの人生だ、真剣に最後の最後までバカやって前のめりに死んでいく……そういう生き方を俺はしたいと思ってる。ご覧のとおり、いまじゃあ、しがねえチンピラみたいになっちまったけどな」
俺はそれを聞いて、柳田のとっつぁんのことを心底うらやましいと思った。
「俺、生まれた時代を間違ったみたいっすね……。あと30年早く生まれて、ひと暴れしたかったです」
「生まれてくる国も間違えたよな」と言って笑ったとっつぁんが、ふと真面目な顔に戻って言った。
「なあ、とみいよ……たとえば、だがな。もし、そんな場所があったとしたら、おめえもう1回ヤクザやるか」
俺は思わずゴクリと唾を飲んだ。
「あるん……ですか!?……」
「やるかどうか聞いてんだ。まず質問に答えろ」
「やります、やりたいです!」
「本気だな」
「…………」
俺は、とっつぁんの目を真っ直ぐに見てこくりとうなずいた。
「じつは日本には、まだ昭和のヤクザの古いしきたりや因習がそのまま残された、ヤクザのガラパゴス島と呼ばれている街がある……。そこに行けば、おめえが望むワイルドなヤクザライフを送ることができるはずだ」
俺は思わずとっつぁんのほうへ身を乗り出した。
「それは、どこにありますか!?」
とっつぁんの説明では、その街は地図で見ると日本列島の左下に位置する九州、そこの北端、福岡県の北九州市という都市で、またの名を「修羅の国」とも呼ばれ、日本でもっとも暴力団が多い都市だと言われているそうだ。
そこに行くしかない。俺は直感した。
そんな俺の心を読んでいたかのように、とっつぁんがこんなことを言い出した。
「けっして大きな組じゃないが、どこの会派ともつるんでねえ独立系の組がある。まあ、店で言えば“地域密着型”とでも言うのかな、地元の人間を大事にする昔気質(むかしかたぎ)の組だ。そこの組長やってるのが、俺が昔、ムショにいたときにいろいろ面倒見てやってたヤツでな……。おめえがその気なら紹介してやってもいい」
「マジですか!? ぜひお願いします!」
その場で土下座するくらいの勢いで俺は頭を下げた。
「ただしだ……」
とっつぁんが言った。
「直接この目で確かめたわけじゃねえが、どうもいまヤツのとこは地元のでけえ組と揉めてるらしい。まあ、ハッキリ言うと一触即発状態ってヤツだな。行ったら行ったで面白えことになるとは思うけど……もしかすると命を落とすことになるかもしれねえぞ」
上等だよ、と俺は心の中でつぶやいていた。
最愛の恋人(たとえトラップだったとしても)だったリオは死に、ヒロシとも決別した。もう、新宿にはなにも思い残すことはない。指を詰めることで、かえってせいせいしたくらいだ。
消えかかっていたヤクザへの情熱の炎が再びメラメラと燃え上がるのを俺は感じていた。
「鉄砲玉でもなんでもやりますよ、俺……」
「!…………」
驚きの目で俺を見つめているとっつぁんに俺は聞いた。
「おじき、そういえば一つ教えてもらいたいことがあるんですが」
「……なんだ」
「おじきは昔、『早撃ちのマサ』と呼ばれて、東京じゅうのヤクザから恐れられてたって話を聞いたことがあるんですが……」
「ああ、その話か……なんでいまそんなこと聞くんだ」
「どこでそんな技を覚えたのかなと」
「上野に師匠がいてな、その人に教わった……。けど、もうずいぶんうってねえからなあ。腕のほうも相当鈍ってるだろうな」
「刑務所行ってたというのは、それで……?」
「ああ、それもある……。まあ、いろいろだ」
「おじきに教わりたかったです。早撃ち……」
「教えるもなにも、なんでもそうだけどな、やっぱり場数を踏むことが大事なんだよ。もう、いまさらおめえに教える時間も気力もねえけど、一つだけ教えといてやる」
「……はい」
「常に敵の手の動きと視線に目を配れ。相手がなにを狙っているのか、総合的に考え抜け! だが、自分がうつときは確率とかを考えるな……その場の空気を感じるんだ。それを指先に伝えろ!」
トウモロコシ畑でただ銃をぶっ放していただけの俺なんかにはすぐには理解できない、まるで禅の世界のように深い話だと思った。その教えをとっつぁんからの餞(はなむけ)の言葉として心に刻み、俺は北九州へ旅立った。
柳田のとっつぁんの異名が拳銃の「早撃ち」ではなく、麻雀(マージャン)の「早打ち」であることを知ったのは、それからずいぶんあとになってからのことだった。